貨幣としての銀と金


Contursi1794$1reverse.jpg1794年10月15日にフィラデルフィアの鋳造所から1758枚の銀貨が納入されたことが記されている。その1758枚の銀貨のうち、現在残っているのはおよそ140枚とされる。Contursi1794$1obverse.jpg1794年に貨幣鋳造所で初めて造られたドル銀貨1794 Flowing Hair silver dollar。2010年のオークションで落札された値段は$7,850,000。金や銀は、歴史的に、貨幣の素材としても使用されてきました。第二次世界大戦後の世界は、唯一の金兌換通貨として1オンス=35ドルの交換比率を保証し、各国通貨は、ドルに対して一定の交換比率(為替レート)が固定されるという「ドル本位制」で運営されてきましたが、1971年8月のニクソン・ショックで金兌換が停止されると、為替レートも変動相場制へ移行し、ものの価値は漂流し始めました。足元では、基軸通貨ドルが、2008年の世界金融危機後に膨張した財政赤字による信用力の低下で下落を続ける一方、金価格が高騰を続け、銀価格も32年ぶりに史上高値を更新し、石油など国際商品市況も景気減速懸念でやや調整しているものの依然として上昇トレンドにあります。

アメリカ・ドルは、もともと銀本位貨幣として発行され始めましたが、歴史を振り返ってみると、金銀の価格と、貨幣によって表される様々な財サービスの価格との間には、密接な関係があります。ここでは、貨幣が誕生し発展してきた具体的な経緯を振り返り、そこで金銀が果たした役割を詳細に眺めながら、今、足元でおこっているドルの下落という現象を歴史的に位置づけ、考えてみたいと思います。

ちなみに、「貨幣」という機能を人類が初めて創造したのは、紀元前2000年頃、メソポタミア文明の担い手シュメール人だったとされています。彼らは、財の運搬を行う際、仕向け先で元の財との交換を保証する目的で、同じ価値を持つ対価物として銀地金を受け取るという制度を考え出しました。シュメール人の都市国家は各々の神を祀り、共同体として農耕を行い、生産物としての穀物を神殿の倉庫に保管し管理したようですが、その際、預けた穀物と同じ価値のものを引き出せることを保証する対価物として、同じように銀地金を使い始めました。銀は、一定の重さの単位で封印された袋に入れられて用いられたとされ、やがて、銀の重量単位が、価値を表す単位となり、後に通貨単位として使われるようになったのです。これが、「貨幣」の始まりとされています。




貨幣とは?


貨幣の機能


一般的に、貨幣とは、次のような機能を持っている。

  • あらゆる財サービスと交換することができる(一般的交換手段としての機能)
  • 財サービスの価値を計り表示するための尺度となる(価値尺度機能)
  • 交換価値を保存することができる(価値保存機能)
  • 債務・税金などの決済をおこなうことができる(決済機能)


当たり前に利用している貨幣であるが、それが社会において引き起こす様々な機能は、非常に多岐にわたり、時として複雑に見える。貨幣は、身近で、当たり前な存在でありながら、本当の姿は見え難く、故に人を容易く支配してしまう。

  • 貨幣は、ものとものとの交換の仲立ちをすることで、生産と消費とを時間的空間的に切り離すという社会的機能を果たしている。貨幣が介在することで、供給と、需要は、切り離され、これが好景気不景気の景気循環を生み出す直接的な契機を作り出した。
  • 貨幣によって、財サービスの受渡しと、代金の支払い決済は、時間的空間的に分離することができるようになる。このズレによって「信用供与」が生じ、小切手などが生み出され、更にそれが決済手段・支払手段として準・貨幣として利用されるようになる。
  • 貨幣と引き換えに、自分の生産物を他人に与えるという行為は、自分のものを、自分では消費せずに、他人に消費させてやる。その対価として、明日以降、同じもの或いは同じ価値を持つものを返してもらう約束(=請求権)をする。その徴として貨幣を受け取る。このとき、貨幣は「将来の約束」=「信用」を表徴している。「信用」をあらわわす証書は紙でもかまわない。
  • 貨幣を贈与されると、その人に恩義・責任を負ったように感じる。選挙から贈収賄まで人を手なずける手段として貨幣は社会的機能を果たしている。
  • 貨幣に託された「将来の約束」は、時として裏切られる。貨幣の裏切り方には様々な形態が有り得る。交換しようとしたときに、自分が手渡したものよりも低い価値のものとしか交換できないという「通貨価値の下落」=「インフレーション」はその一つ。
  • 貨幣を発行するものは、貨幣を製造するコストと、その「額面価値」との差を、常に「通貨発行益」として得ることができる。貴金属の裏づけの無い貨幣は、製造コストは極めて低く、「通貨発行益」を極大化するのに好都合であり、戦争によって国家財政が逼迫するとき、国家は例外なく、貨幣の貴金属の含有率「品位」を引き下げ、大量に発行した通貨で戦費の支払いを行ってきた。そうすると、通貨価値の下落、その表裏一体の現象としての財サービス価格の上昇=インフレーションが起こる。戦費を賄うための通貨発行は、ハイパーインフレーションを引き起こし、貨幣が価値を表さなくなった事例は、歴史上、事欠かない。貴金属の裏づけを持たない貨幣を刷るようになったのは1929年の世界大恐慌以降のことであるが、これによって世界は恒常的インフレーションに晒されるようになった。
  • インフレーションが起きると、社会的に大規模な富の移転が発生する。財サービスの供給者は得をし、消費者は損をする。借金の貸手は損をし、借手は得をする。戦争が起きると常に成金が生み出されるのは、通貨発行権を持つ国家と結託したり、趨勢を目敏く嗅ぎ付けたものが、財サービスを売り惜しみ・買占めて、インフレーションの効果を極大化する術をもっているためである。
  • 通貨供給が増加すると、財サービスの購入に充てられない大量の資金は資産市場(株式・債券・土地・貴金属など)へ向かう。既に発行された証券が売買されるだけのセカンダリー・マーケットは、富の再配分がなされるだけのゼロサム・ゲームの場である。買えば値上がり、値上がったものを担保に借金をして更に買い増すと、更に価格が上昇するという「バブル」が醸成され易い。このプロセスは、加速度的な資金供給量の増大によって支えられるため、新たな資金供給が途絶えると、賭博上の掛け金はあっという間に回収され、価格は暴落し、高値掴みしたものは破綻する。これも大規模な社会的な富の再配分であるが、最終的に得をしたものが良くわからなくなるという特徴がある。また、資産価格の変動は、実物の財サービスに対する消費や投資にも重大な影響を及ぼし、経済を恐慌に突き落とすこともある。1929年の世界大恐慌が何故生じ、どの様に回復に向かったかという点について、経済学者の間に定説はない。2008年の世界金融危機についても、きちんと反省され、繰り替えささないように対処されているかというと、全くそんなことはない。人類は、原子からエネルギーを搾り出せる知恵を持ちながら、日々自分達が引き起こしている経済現象さえも、理解し、管理することはできていない。
  • 世界の貿易決済の7割はアメリカ・ドル建てで行われ、その収支である外貨準備もドル建てで保有されている。基軸通貨ドルを発行するアメリカは、莫大な「通貨発行益」を得ているのだが、この点を正しく認識し、是正しようとする動きは、驚くほど希薄である。2000年代に入って、3兆ドルに達するほどの外貨準備を積み上げた中国が、基軸通貨制度の改革を訴えるようになったのは当然のことだ。



貨幣の素材


BC35000_Ornament_CaveInTurkey.jpgShell Ornaments in Paleolithic period BC 35000-BC40000, Üçağızlı I cave, Turkey.交換の仲立ちとして用いられるものは、金銀に限られない。タカラガイなどの貝類(古代中国、オセアニア、アフリカ)や石類(オセアニア)などの「自然貨幣」、穀物(バビロニア)や米・布(日本)などの「商品貨幣」、などを総称して「物品貨幣」と呼んでいる。自然貨幣である貝・羽毛・鼈甲・鯨歯など装飾品や儀礼的呪術的なものは、宗教的意味を帯びている場合が多い。

中国の貝貨(タカラガイ)は、穴が開けられるなど加工が施してあるが、紐を通して首飾りのようにして使われたことを示している。タカラガイを紐で通した首飾りが、集団間での地位やアイデンティティーを表す個人が所有する装飾品として登場したのは、4万年~5万年前(旧石器時代)とされている。この頃、人類の人口密度が高まり、居住地域の資源(貝など採取食物など)の利用権に競合が生じ、その優先的利用権をめぐり集団の階層化が生じたことが、他人との違いを強調するための個人所有の装飾品の急増と結びつけて理解されている。

旧石器時代から人類が居住し続けたトルコ南部の海に面した断崖上にあるÜçağızlı洞窟の発掘層(4万年前~3.5万年前)では、最初期にはほぼ全ての貝の装飾品がタカラガイでつくられていたが、後に他の種類が使われるようになっており、上位層の特権的所有物であったタカラガイを模倣した象徴的機能を持たない単なる装身具としてつくられたものと見られる。集団における社会関係である「排他的利用権」を象徴する機能は、タカラガイが、社会集団の中で交換の仲立ちをする貨幣として利用される直接の契機を為していると考えられる。ただ、こうした装飾品は、美的関心だけでなく、身につけることで魔除けなどの宗教的効果が期待されたことも確かなようで、生命を表す赤い色(酸化鉄を含む土)で彩色されたタカラガイも見つかっている。

旧石器時代から人類が連続して居住していたトルコ南部の海岸にあるÜçağızlı洞窟の発掘調査サイト

時代が下ると、青銅器時代や鉄器時代に、兵器や呪術用具の原料として使われる青銅・銅や鉄などが、一般的交換手段として利用される様になった。金銀や青銅・鉄などの金属は、地金の重量に応じた価値によって、他のものの価値を表し、一般的交換手段として取引の仲立ちをし、この段階の使用形式を「秤量貨幣」と読んでいる。




貨幣の始まり


紀元前2000年頃、メソポタミア文明の担い手シュメール人が、「貨幣」という機能を人類として初めて創造したとされている。その本質は、彼らが、次の二つの社会的機能を考案した点にある。

①シュメール人は、インドからアフリカまで非常に広い範囲の人々と交易をおこなっていた。遠隔地と交易を行う場合、財を送り出す所有者と、財を運ぶ運搬者、財を受け取る人は、全て別々の人間である。財の運搬を行う際、仕向け先へ財を届けることを保証する目的で、運搬者が、財と同じ価値を持つ対価物として、銀地金を手渡すという制度が考え出された。

②シュメール人の都市国家は各々の神を祀り、共同体としての灌漑設備などインフラを利用しながら個々人が農耕を行い、生産された穀物は、神殿の倉庫に保管し、共同体として管理した。その際、個々の生産者は、預けた穀物と同じ価値のものを引き出せることを保証する対価物として、銀地金を受け取るという制度が考え出された。

いずれの機能においても、シュメール人は、a) 一定の重さの単位で銀を封印した袋 kaspum kankum として用いたり、b) 一定の重量を示す刻印を打った銀地金 uddu、という形態で銀を使用した。

穀物の重さの単位はシェケル Shekelだったが、これが銀の重量単位として用いられ、更に財の価値を一般的に表す「通貨単位」として使われるようになった。

これが「貨幣」の始まりとされている。



鋳造貨幣と通貨発行権


紀元前610年、リディア王国 Lydia が、一定重量の琥珀金(エレクトロン)に、国家としての刻印を打って、一定の価値(額面)を表す「鋳造貨幣」を発行した。発行された単位は以下のようになっている。

  • 3分の1スターテル starter =1トリテ trite (約4.7グラム)
  • 6分の1スターテル starter =1ヘクテ hekte
  • 12分の1スターテル starter =1ヘミヘクテ hemihekte
  • 96分の1スターテル starter =1リディアン Lydian (0.15グラム)

一般的に、鋳造貨幣は「額面価値」を持ち、それによって「交換価値」を表す体系を持ち、こうした貨幣を「計数貨幣」と呼ぶ。

通貨を発行する国家等が定める「額面価値」と、貨幣そのものが持つ貴金属としての「実質価値」は、常に乖離する可能性がある。一定額面の貨幣に含まれる貴金属の割合である「品位」は通貨発行者が決定するため、「額面価値」と「実質価値」の差は「通貨発行益 seigniorage」として通貨発行者の利益になるという構造が生じた。もともと、「シニョール seignior」 とは、フランス語で中世の封建領主のことで、「シニョリッジ seigniorage」とは領主の持つ様々な特権を意味していた。その中には印紙税収入や鉱山採掘権などもあるが、中でも特に重要なのが「貨幣発行益」であった。中世の領主は「額面価値」より安価な「実質価値」を持つコインを鋳造して発行する(ものを購入した支払いに充てる)ことによって、鋳造コストを含む「実質価値」と「額面価値」との差額を財政収入として享受するようになったのである。また、貨幣の発行が国家によって独占されていない状態では、私鋳によって品位の劣る貨幣を鋳造する「私鋳銭」や「贋金」が横行し、自らの支払いに充てることで「通貨発行益」を得ようとするものが続出するため、貨幣の「品位」と「通貨発行権」の管理は、国家を運営する上での最重要事項となっていった。

歴史上、戦争などによって国家の支払いが急増して財政が苦しくなると、国家は貴金属の「品位」を落とした貨幣を大量に発行する「改鋳」を行い、貨幣の「実質価値」の低下によって同じ交換価値を表すために必要となる「額面価値」つまり「値段」が上昇するインフレーションを必ずといって良いほど発生させている。改鋳によるインフレーションは、国家が国民によって生産される財サービスを、従来よりも遥かに安い鋳造費用でつくった貨幣で支払いをおこなうことで、自由に消費できることを意味する。一方、社会的には、改鋳による価格上昇を見越した「インフレ予想」に基づく財サービスの売り惜しみ・買占めを引き起こし、財サービスの価格上昇を一層激化させ、消費者から供給者への富の移転を引き起こし、社会的な富の分布を激変させる効果をもっている。戦時等において成金が続出し、彼らが政治家と結託している理由はこの点にある。



本位貨幣


やがて、貨幣の「額面価値」と、含まれる貴金属の「重量」「品位」との関係を法律で定めて、国家として強制力をもって流通させる「本位貨幣制度」が生まれる。金の価値に基づいて貨幣価値の体系を定めたものを「金本位制度」、銀に基づくものを「銀本位制度」、金と銀と両方とに結び付けて定めたものを「金銀複本位制」と呼ぶ。「金銀複本位制」の場合、時々の金と銀との市場実勢にもとづく「実質価値」の比価は、法律価値で定められた「額面価値」の比価と異なるため、有利になる通貨が退蔵され、不利になる通貨が流通することになり、実質的には「金本位制」または「銀本位制」として機能することになった。歴史上、「重量」や「品位」を意識し、通貨体系を定めたのは、帝政ローマ時代後期と考えられ、ローマ法において詳細な規定が見られる。



信用貨幣


貨幣として「実質価値」を持たない紙幣が、「額面価値」として流通する理由は、国家の法律によって、誰もがそれを受け入れなければならないという強制通用力が担保されているためである。国家権力の安定性・継続性を根拠として成立している貨幣のことを「信用貨幣」と呼ぶ。ギリシア・ローマ時代においても、共同体の外との決済には金貨・銀貨が使用されたが、共同体内における小額の決済には「信用貨幣」が利用された。世界で最初の紙幣は、中国の宋の時代に発行された、鉄との交換を保証した「交子」であるとされる。もともと、一定の価値を持つ金属等を手元に貯蔵しているものが、手持ちの金属との交換を保証した上で「信用証書」を発行し、これが民間での取引決済において使われていた。宋の「交子」は、こうした民間の制度を真似て、国が発行した政府紙幣であり、その他、指定された銀行が発行する銀行券を含め、国家によって強制通用力を与えられたものを「紙幣」と呼んでいる。紙幣は、ものとの交換を保証する「兌換紙幣」として始まったが、やがて貯蔵されている貴金属の「実質価値」を超える「額面価値」の紙幣が発行されるようになり、最終的には、貴金属との交換そのものを前提せず、国家等の「信用力」のみで流通する「不換紙幣」が発行されるようになった。「実質価値」を持たない「信用貨幣」を流通させる通貨制度を「管理通貨制度」と呼んでおり、1971年8月にアメリカ・ドルが金との兌換を停止して以降、人類は、「実質価値」を持たない「信用貨幣」のみが流通する世界に生きることになった。



貨幣が象徴するもの


今日、われわれが、紙や電子記録でしかなくなった通貨に永遠の価値を見出すのは、ものとものの交換によって形成されている人類の社会関係がそこに反映され、貨幣が自立した表徴として機能しているからである。貨幣を崇拝するという人類の行動様式は、言葉を操る人類が言語中枢において本能的に有している「象徴化作用」の働きによるものだ。言葉はものを音声として象徴し、その象徴の交換によって、人類は意思の疎通を図っている。別々の個体が、音声や表情などの象徴の交換によって、相互に一定の意味を共有し得るのは、多くの生物種が本能として持っている「共感作用」の働きに基づいている。貨幣は、交換という社会関係を通じて現れる交換価値をあらわすものとして認知されているが、本質的に「象徴」されているのは、社会関係そのものである。


銀本位制度として誕生したアメリカ・ドル


1971年まで金兌換通貨であったアメリカ・ドルは、もともと1792年に銀本位通貨として誕生した。

アメリカ独立戦争の背後にある通貨発行権をめぐる争い


1773_BostonTeaParty.jpg1773年 ボストン茶会事件イギリスは、フレンチ・インディアン戦争(1754・1763)によって財政危機に陥り、植民地からの税収増を図るために、1764年砂糖法、1765年印紙法、1767年タウンゼンド関税を成立させたが、こうした植民地課税に対する反対運動がアメリカで盛り上がり、印紙税法とタウンゼンド関税は廃止に追い込まれた。しかし、「茶」に対する関税は残され、1773年「茶法」によって東インド会社の茶が安く植民地に流入することになると、植民地商人の怒りは爆発し、1773年12月、入港した船の茶を港に投棄するという「ポストン茶会事件」がお二つた。1774年、13植民地は大陸会議を開き、本国との和解の道を探ったが、打開できないまま、各植民地の地元の民兵隊によって戦争が始まり、1775年6月になって大陸会議はようやく正規軍を設立して、ジョージ・ワシントンを総司令官に任命した。

1776年7月4日に13州が独立宣言をおこなった。


しかし、独立戦争に至った最も重要な要因は、13州の植民地政府が発行していた貴金属の裏づけを持たない植民地政府による不換紙幣 fiat money の「通貨発行権」を、イギリス本国議会が規制しようとして相次いで制定した通貨法 Currency Act にあった。フレンチ・インディアン戦争の軍事支出を賄うために植民地州政府は信用紙幣 bills of creditという発行したが、過剰な発行によりインフレーションを引き起こし、英国ポンド建てでアメリカ殖民地商人に対して多額の貸付を行っていたイギリスの商人は、この不換紙幣で返済を受けることになり、実質価値で見た場合に多額の損害をこうむることになった。最初の通貨法 Currency Act of 1751 は、ニューイングランド植民地州政府の紙幣発行を制限するとともに、「私的債務の返済」にこれを用いることを禁じ、税金という「公的支払い」には用いることを認めるというものだった。次いで制定された通貨法 Currency Act of 1764は、1751年法を北米の英領植民地諸州全てに拡張適用したものだったが、紙幣発行そのものを禁じるのではなく、公的・私的債務に対する返済のために強制通用力を持つ法定通貨 legal tender として発行することを禁止した。金銀準備が不足する植民地では、通貨供給の不足からデフレーションと不況が生じ、ロンドンでロビーストとして活動していたBenjamin Franklinは数年にわたり法律改正を嘆願し続けた。ニューヨーク殖民州は、このままでは英国軍に物資など供給をおこなうことを定めた法律 Quartering Act に基づき支援することが出来ないと訴え、1770年にイギリス議会は12万ポンドの紙幣発行を認めたものの、植民地内での公的債務の履行の目的に限定し、私的債務の履行に用いることは認めなかった。更に、他の新植民州への適用のために1964年法は改正され、通貨法 Currency Act of 1770となり、植民地内の公的債務への履行目的に限定して紙幣発行を認めた。通貨法をめぐる一連の経緯は、アメリカ殖民州とイギリス本国政府との間に、通貨発行権という国権の枢要をめぐる鋭い軋轢を生じさせ、独立による立法権確立の必要性を確信させるに至った。1774年の権利宣言 Declaration of Rightsにおいてイギリス本国が強制している破壊的法律7法のうちの一つとして、通貨法 Currency Act of 1764が名指しされていることに、その経緯が集約的に示されている。


独立戦争はやがてイギリスと、フランスをはじめとする欧州諸国との戦争へと発展してゆく。1778年2月、サラトガの戦いで大陸軍が勝利したことを知ったフランスはアメリカと同盟条約を結び、1779年6月にはブルボン家盟約を更新してスペインがフランスの同盟国として参戦した。1780年にはオランダも参戦し、3国共にイギリスの力を削ぐことを期待し、アメリカを密かに財政的に援助した。更に、フランスの青年貴族ラファイエットやコシューシコ、プワスキら欧州義勇軍が参加し、1780年のイギリスによる対アメリカ海上封鎖に対し、ロシアのエカチェリーナ2世の呼びかけで武装中立同盟が結成され、イギリスは国際的に孤立した。

ドイツのハノーバー選帝侯に起源を持つ国王ジョージ3世は、強硬路線を貫き、時間稼ぎにでたが、アメリカからインドに至るまでの戦線の拡大、広大な土地の占領に人手が足りなかったこと、などから敗退し、1784年1月にアメリカ連合会議がパリ条約を批准して戦争は終結した。1787年、13州は、アメリカ合衆国憲法を制定(翌年発効)し、1789年に総司令官ワシントンが初代大統領に就任した。

アメリカ独立戦争で、イギリスは約8,000万ポンドを費やし、最終的な国の負債は2億5千万ポンドとなった(利息返済だけで年間950万ポンド)。フランスは13億リーブル(約5,600万ポンド)を消費し、国の負債は1億8,700万ポンドにのぼった(1780年時点の歳入の半分以上が負債の返済に消えた)。フランスは、負債危機のために政府は大衆の承認なく税率を上げることができなくなり、フランス革命の大きな要因となった。アメリカ合衆国は連邦で3,700万ドル、各邦の合計で1億1,400万ドルを使い、フランスやオランダからの借金、国民からの借金、および紙幣の多額の発行で補った(1790年代に負債を完済した)。


1777_Pennsylvania_three_pence_note.jpgThree pence bill of Pennsylvania currency, printed by John Dunlap in 17771777_Pennsylvania_three_pence_note_2.jpgアメリカ独立13州は、信用紙幣 bills of creditの発行を自由に行えるようになり、更に大陸議会 Continental Congress大陸紙幣 Continental Currency を発行するようになり、独立戦争期の戦争費用を含むあらゆる支払いに充てた。不換紙幣の乱発は、ハイパーインフレーションを招き、独立戦争末期には、こうした紙幣の価値はほとんどなくなってしまっていた。

こうした経緯を踏まえ、1788年に制定されたアメリカ合衆国憲法 United States Constitution は、州政府の紙幣・硬貨を含む「通貨発行権」を認めず、連邦レベルで唯一の通貨発行機関を定める方針を明示したのである。そして、1791年に合衆国第一銀行 The First Bank of the United Statesが設立され、合衆国13州の通貨発行機能を担うとともに、1792年の貨幣法 Coinage Act of 1792 で発行要件を定めることになったのである。



貨幣法とドル銀貨


1739_Philip_V_Coin.jpg<Obverse> Both one, Mexico City Mint, 1739" Displays two hemispheres of a world map, crowned between the Pillars of Hercules adorned with the PLVS VLTR motto. <Reverse> "Philip V, by the Grace of God, King of the Spains and the Indies" Displays the arms of Castile and León with Granada in base and an inescutcheon of Anjou.1792年に貨幣法 Coinage Act of 1792が公布され、「ドル」という通貨が発行され始めた当時、世界中に流通していたのは、スペイン・ドル銀貨(および同じ重量をもっていたメキシコ・ペソ銀貨)であり、アメリカは、このスペイン・ドル銀貨を基準として「ドル銀貨」を法律で定義した。このため、スペイン・ドルとメキシコ・ペソは1857年の貨幣法Coinage Act of 1857成立まで米国の法定通貨として流通していた。但し、同時に、ドルは、実質的に金本位制を採用していた英国のポンドとの交換比率を£1=$4.86と定めて金との交換比率も定義されていたため、この通貨制度は体裁上「金銀複本位制」と呼ばれている。

当時、流通していたスペイン・ドル銀貨は、8レアルの価値を持ち、1497年にスペインで行われた通貨改革によって発行され始めた銀貨であり、その鋳造はスペイン本国のほか、ポトシ銀山とメキシコ・シティで行われた。当時の欧州は、インドネシアなどアジアからの香辛料、絹、陶磁器の輸入支払いのために銀が枯渇し、貨幣の改鋳が相次ぎ混乱した状況にあった。こうした中、1486年にオーストリアのジギスムンド大公が高い品位の大グルデン銀貨 Guldengroschen をチロル地方のSchwaz鉱山の銀を使って鋳造し、これが広く欧州諸国に受け入れられ、各国はこれをまねた銀貨を発行するようになった。神聖ローマ帝国の支配下にあったボヘミアでは、1518年から大グルデン銀貨と同じサイズでやや品位の劣る銀貨を発行したが、それは「聖ヨハネの谷 Joachimsthal」で産出される銀で造られたので「タラー Thalaer」と呼ばれ、「ダラー(ドル) Doller」の語源となった。

Contursi1794$1obverse.jpg1794年に貨幣鋳造所で初めて造られたドル銀貨1794 Flowing Hair silver dollar。2010年のオークションで落札された値段は$7,850,000。Contursi1794$1reverse.jpg1794年10月15日にフィラデルフィアの鋳造所から1758枚の銀貨が納入されたことが記されている。その1758枚の銀貨のうち、現在残っているのはおよそ140枚とされる。貨幣法 Coinage Act of 1792に基づくドル銀貨は、1794年から1836年まで、合衆国貨幣鋳造所で製造された。1794年から1803年までの初期のドル銀貨の金型 dies は、手作業で彫刻されており、銀貨には様々なバリエーションがあり、これらはコレクターの間で高値で取引されている。

金と銀に同時にリンクしている通貨は、各々の価値変動にひきずられて混乱が生じるのは避けようが無い。アメリカにおいては、1812年戦争(アメリカ合衆国とイギリス(及びその植民地力ナダ及び同盟を結んだインディアン諸部族との間でおこなわれた戦争)によって一時的にドル紙幣と銀の兌換が停止され、南北戦争の混乱の中で、1861年、再び連邦政府が銀との克換を停止している。このため、ドルという通貨の価値が低下し、銀価格が上昇するという現象が生じた。



実質的な金本位制へ


南北戦争の混乱を境に、米国は、1879年に、ドルと金との交換比率を一定にする実質的な金本位制の状態へと移行した。金本位制へ移行した背景には、①英国が1821年に正式に金本位制度へ正式移行したため貿易面・金融面で関係の深いイギリスと価値尺度を揃えておくことが有利であったこと、②1849年にカリフォルニアで金山が見つかりゴールドラッシュが巻き起こり大量の金を保有していたこと、などがあった。




金と銀の価値と比率


古代における金銀の使われ方

紀元前1000年頃、旧約聖書によると、は神殿への寄贈品として用いられている。イスラエル王国のダビデ王が神殿を築くにあたり、自分の保有する「金」を寄贈する。ダビデは、誰か自ら進んで「金」を差し出すものはいないかと問いかけ、家系の長たち、イスラエルの部族長たち、千人隊長と百人隊長たち、王の執務に携わる高官たちが自ら進んで「金」を寄贈した。ダビデは、「金」を用い、「政(まつりごと)」の道具として、燭台、火皿、供え物を載せる聖卓、ささげ物の肉刺し、鉢、壺 杯 祭壇、を作り、「金」を神殿に贈った結果として、息子ソロモンの時代は平和と栄華を極めることになった。新約聖書では、イエス誕生の際、ベツレヘムから東方3博士が見舞いに訪れるが、贈り物として「黄金」、「乳香」、「没薬」を献げている。エジプトでは、紀元前1350年頃、ツタンカーメンの黄金マスクのように王家墓所の埋葬品として用いられた。中国では、紀元前200年頃の前漢の墳墓から、副葬品として「金」の延べ棒が発見されている。


は、一般に鉛の鉱石である方鉛鉱 に多く含まれており、鉱石を加熱してを取り出すと、その鉛の中に銀も溶け出し、銀を含んだ鉛が出来る。更にその銀を含んだ鉛を加熱して鉛を溶かすと、融点の違いから、銀が溶けずに残るという仕組みを利用し、銀を分離する技術、灰吹き法 が、紀元前3000年頃、 トルコのアナトリア地方で産出される鉱石を使って実用化され、小アジアやギリシャ周辺に銀が供給されるようになった。最古の「銀」を使った製品は、紀元前3000年頃、貴金属細工誕生の地とされるメソポタミア、カッパドキア、トロイア、フェニキア等のシュメール人の墓から相次いで発見された瓶類である。シュメール人は、銀・銅・石材・木材を、遠くインドやアフリカから輸入し、ラクダの隊商が雄牛に引かせる荷車やそりに積んで運んだ。紀元前2世紀になると、ローマ人が銀の熱狂的な収集を始め、古代ギリシャ 時代にギリシャ本土や各地の植民地でつくられたスプーンを含む什器類の多くは、ローマ人のためのものだった。古代ギリシャ様式は、ローマ様式に溶け込み、さまざまな用途の銀製品を生み出していった。ルネッサンス期、イタリア宮廷での洗練された食事作法のために、ナイフとフォーク、カップ、水差しなどの新しい什器が銀によってつくられるようになり、この食事作法が、フィレンツェから嫁いでいっ たカテリーナ・デ・メディチによって、フランス宮廷に伝えられ、更に清教徒革命でフランスに亡命していたチャールズ二世によってイギリスへ伝えられたのである。バロック時代には、オランダと並んでイタリアの銀器がヨーロッパを征するようになるが、 18世紀中頃、ロココ様式の最盛期には、絶対王政の下での国民意識の高まりを反映し、ブルジョア階級が自国でつくった銀製品にこだわりを持つようになり、ロココ様式に各国毎のバリエーションをもたらすことになった。銀食器は、社会的地位のシンボルとなり、旺盛な需要に応えるために銀器の加工技術は飛躍的に進歩し、品質・デザインともにハイレベルなものとなっていった。19世紀に入ると、産業革命によって蒸気機関で動くプレス機などが開発され、銀製品は、家内製手工業の時代から、大規模な工業化の時代へ突入し、生産性の向上による価格低下とともに、銀製品のテイストは一気に大衆化へ向かうことになる。20世紀になると、銀職人 の間で、デリケートな草花装飾のアールヌーボー様式や、幾何学模様のアールデコが流行し、プレス技術や鋳造技術の工業化が一層進み、デザインそのものに特許が与えられるようになった。



金銀の特性

金や銀が、その輝きであまねく人々を惹きつけ、あらゆる人の所有欲を刺激し、崇拝の対象として人類の前に登場したのは紀元前6000年頃、新石器時代の幕開けの頃だったとされている。金は自然の形で産するのに対し、銀は合金の形で存在し、その精錬技術灰吹き法が確立されるまでは、金よりも銀の価値の方が高かった。その後、金や銀は、「地金」「貨幣」「装飾品」などの加工品として生成と溶解による再利用を繰り返し、利用され続けてきた。

金・銀は、その希少性と輝きから、宗教的権威などをあらわす装飾品として利用され始めた。占星術や錬金術などの神秘主義哲学では、銀は月/男性を、金は太陽/女性を意味し、ていたが、銀スプーンが美しい白い光沢を放つ事からある時を境に位置が逆転し、銀は月/女性原理を象徴し、一方、金は太陽/男性原理を象徴する物となった。

金銀は、①美しい輝きが永遠に持続すること、②保有したいという欲望を人類共通に刺激すること、③採掘量が限られ希少であること、を背景に、a)「絶対的価値」を持つと見倣され価値を保存する手段となり、b)様々な財サービスの価値を表す「価値尺度」として用いられ、 c)一般的に流通する「交換価値」の担い手(貨幣)として流通するようになった。

金銀の他に、貨幣として最も多く使われたのは貝であり、タカラガイという種類の貝が良く使われた。この美しい貝は、装身具等として人気があり、様々なものと物々交換されるうちに、一般的な交換手段=貨幣としての地位を確立したと考えられる。タカラガイが以下のような貨幣をして機能するために必要な条件を満たしていた。

  • 美しい文様とガラス質の光沢が長期にわたり保持され価値保存に適していた。
  • 装身具等はバラバラに分割可能で価値を図る尺度として適していた。
  • 持ち運びに便利なので交換手段として適していた。
  • 誰もが欲しいと思うため一般的な通用力を有していた。

最初にタカラガイを貨幣をして利用した文明は中国の殷(BC1675–1029)であったと考えられるが、その利用は世界中に広がっており、西アフリカのコンゴ王国では19世紀半ばまで貨幣として使用されていた。奴隷貿易の支払いのためにイギリスはタカラガイを輸入して決済に利用した。

文明の最初期における交換手段としの金銀は、地金の重さで価値を表す「秤量貨幣」として流通した。一般に流通する上では、地金に含まれる金銀の含有量(品位)が安定している必要があり、品位を安定させるために、様々な工夫が凝らされ、今日、金銀製品に刻印される極印制度(hanmark)などが生まれた。やがて、品位と従量を一定に保っために企画化された金銀地金が鋳造されるようになり、その役割は「国家」に独占されるようになってゆく。一定の価値を表すと表徴された「貨幣としての価値」と、それに含まれる「金銀としての価値」との差は、「鋳造差益」として国家を潤すためである。



金銀比価


地殻内存在量.gif金と銀との価格差(金銀比価)は、①採掘可能な鉱山の多少(賦存量)、②精錬技術など生産性、③運搬のコスト、④装飾・貨幣・産業・投資などにおける需要量、によって変動してきた。

地球の地殻における元素としての存在量は決まっており、その希少性の度合いが、大まかな金銀比価を決めている。金の地殻存在量は、「0.004ppm」(ppmは百万単位質量当りに含まれる量を示す単位)で、現在、金の地上在庫総量は、2009年末で、16万5600トンあるとされている。一方、銀の地殻存在量は、「0.07ppm」であり、金の17.5倍ある。

金銀比価を歴史的に振り返ってみると、欧州においては、ギリシア時代から中世までおよそ「1:13」で安定していたが、15世紀に新大陸が発見されポトシ銀山などから銀が大量に流入すると、銀価格は急落し、金銀比価は「1:16」前後になり、これが19世紀半ばまで安定していた。この段階まで、金銀比価は、地殻における希少性に応じて決まっていたと見ることが出来る。

その後、1816年にイギリスが貨幣制度として金本位制を正式に採用し、1860年代から70年代に世界各国が金本位制へ移行し始めると、銀価格は下落トレンドを辿り、20世紀初頭には金銀比価は「1:40」にまで達した。

金銀比価.jpg1929年の世界大恐慌によって、各国が金本位制を離脱すると、金銀比価は急上昇し、第二次世界大戦に突入する頃には「1:100」に近づいた。これは金1オンス=20.65ドルで固定されていた平価が無効になり、金価格が需給実勢に応じて34.85ドルまで急上昇したことを反映している。

1945年、ブレトンウッズ体制が確立され、ドルのみが金との兌換率(1オンス=35ドル)を保証し、各国通貨はドルとの交換比率を固定するという「ドル本位制」が確立されると、需給で動く銀の価格が相対的に上昇し始め、1967年には、金銀比価は「1:17」という、地殻存在量の比に等しい水準にまで低下した。

その後、ベトナム戦争への出費などでアメリアの財政赤字が膨大に膨らみ、金との兌換が困難になるという懸念が広がり、1971年8月にニクソン大統領が金との兌換停止が発表されると、金価格は、公定平価のしがらみから放たれて上昇し、1990年前後には再び「1:100」に近づいた。

2000年代半ば以降、金銀価格は上昇を続け、金銀比価は、再び「1:40」前後となっている。



地域で異なる金銀比価と裁定取引


BC1000年頃、古代エジプトでは、金銀比価は「2.5:1」、つまり、銀が金に対して2.5倍の価値があったそうだ。金は自然金(主に砂金)として見つかるのに対して、銀は自然銀の形でみつかることがほとんど無く、精錬技術も無かったために、貴重視されていたためである。

BC6世紀になると、史上初めて貨幣を鋳造したリディアにおいて、金と銀の精錬技術が進歩し、純度の高い金貨・銀貨が発行されるようになった。これによって銀の安定供給が果たされると、銀の値段は急落し、本来の希少性を反映し、金と逆転した。

B.C.5世紀頃、リディアを征服したアケメネス朝ペルシアは、しばらくリディアのコインをそのままのデザインで鋳造したが、ダレイオス大王の治世下、ダレイオス金貨とシグロス銀貨を発行し、その交換比率を「1ダレイオス=20シグロス」と定めたが、その金銀比価は「1:12.96」だった。

その後、ヘレニズム世界では、近代にいたるまでだいたい金対銀は「1:12」前後を中心に推移するようになった。

8世紀頃、イスラム帝国が、アフリカの金を使って「ディナール金貨」を鋳造するようになると、イスラム世界での金の需給が崩れ、金銀比価は一時的に「1:6.5」程度になって、金の価値が下がったとされる。

一方、中国では13世紀頃、元王朝の時代に金銀比価は「1:13」であったが、明初期には「1:6」になったとされる。

日本では、平安時代後期の応徳2年(1085年)の相場が「1:5」で、元寇前後の混乱期である弘安10年(1287年)には一時的に「1:3」になったものの、凡そ金「1:5~6」であったとされ、銀の価値が国際水準と比較して倍以上高かった。当時、中国での金銀比価が「1:13」であったために、日本から大量の金が中国へと流出し、銀が流入する構造となっていた。

16世紀に入ると、スペイン人による南米侵略の過程で、銀鉱山が相次いで発見された。1520年代にメキシコ、1530年代にペルー、1545年にはボリビアのポトシ銀山が発見されている。更に「水銀アマルガム法」という水銀を利用した画期的な精錬法によって銀の生産性が飛躍的に向上し、大量の銀がヨーロッパに流入するようになり、金銀比価は、「1:12」前後から一挙に「1:15~16」くらい大きく変動し、銀の相対的価値が低下した。銀本位制を採用していた各国は、銀貨に含有される銀地金の「実質的価値」の低下によって、急激なインフレーションに見舞われ、欧州の高コスト銀山に依存していたフッガー家などが没落した。この超インフレを歴史上「価格革命」と呼んでいる。

16世紀、アジアでは、銀が相対的に高く評価されており、金銀比価は、中国「1:9」、朝鮮「1:10」、インド「1:12」であった。欧州では、金銀比価は「1:15~16」であったので、大量の銀が欧州・新大陸からアジアへ流入する一方、金が欧州へ持ち去られた。

織田信長が永禄12年(1569)に制定した金銀比価は「1:7.5」であり、灰吹法によって特に銀の生産性が向上したため、金銀比価は、天正年間に「1:10」、慶長年間には「1:12」となり、銀安がすすんだ。これにより、当時「1:9」だった中国へ銀を輸出し、金に代えて、持ち帰ることが有利となり、銀流出/金流入の構造が戦国時代末期から江戸時代初期にかけて生じた。

17世紀前半、1601年に発見された佐渡金山は、慶長から寛永年間にかけての最盛期に金を1年間に400kg、銀を40トン以上生産する日本最大の金山となり、日本から金銀が大量に輸出された結果、東アジア全域で金銀比価の平準化が進み、「1:13」前後になったとされる。金銀比価の平準化にともない、江戸時代中期には、金銀の裁定取引はおこなわれなくなった。

1717年、科学者アイザック・ニュートンが造幣局長として定めたニュートン比価は「1:15.21」だった。ちなみに同じ1700年代、中国での金銀比価は「1:10」、日本では「1:8」くらいであるとアダム・スミスが言及している。1776年、アダムスミスは「国富論」を著し、「過去四世紀間の銀の価値の変動についての余論」において、三期に分けて詳細に銀価格の変動および金銀比価の変動を論じている。イギリスのニュートン比価は、欧州においても金価値が相対的に高く評価されていたため、金が退蔵され、金の「実質価値」に対して名目的な「額面価値」で結びついていた銀の流通を促し、同時に、銀が相対的に高く評価されていたインドとの間で裁定取引が行われたため、イギリスに金が流入する構造が生み出され、実質的な金本位制へと踏み出すことになった。


1772年、日本では、南鐐二朱銀の発行を契機として、銀は秤量貨幣から金貨単位とリンクした計数貨幣へ転換された。一方で、天保一分銀4枚が小判1枚に等しいと定められ、銀貨と金貨との「額面価値」による金銀比価は、地金の「実質価値」の比率とは関係なく定められた。文政・天保の改鋳においては、この金貨・銀貨の「額面価値」比率が、改鋳差益を得ようとして、銀高方向へ大きく修正され、天保一分銀の金1両当たりの銀量は9.1匁と南鐐二朱銀(21.1匁)の43%にまで低下した。「額面価値」で銀貨が流通するようになったため、日本における金銀比価は、国際相場「1:15」を大きく上回る「1:6」程度にまで上昇していた。こうした国際水準と乖離した価格は、鎖国による内外金融市場の遮断によって支えられていた。しかし、1859年6月に神奈川・長崎・函館の3港開港により、アジア経済圏での貿易決済貨幣として流通していたメキシコ・ドル銀貨(洋銀)を日本に持ち込んで金に交換すると、国際相場の約3倍の金貨を手にすることができたため、アメリカ、イギリスなどの商人が活発な金銀の裁定取引を行い、合計50万両程度の金貨、当時における金貨流通高の約2%、もしくは金銀流通高の1%程度の金貨が、僅か1年のうちに流出したとされる。この時点での「額面価値」に基づく金銀比価は「1:4.65」だったが、秤量貨幣である丁銀と小判との「実質価値」に基づく金銀比価は「1:10」であった。

開港直前の1859年5月、金の流出を懸念した幕府は、額面価値を半分に落とした安政二朱銀を新鋳して海外なみの金銀比価を実現しようとしたが、諸外国から強い反発にあって中止に追い込まれている。、相当な金額の金貨が海外へと流出していった。1860年2月、天保・安政小判の対銀貨通用価値を約3倍に引き上げる「直増通用令」を発出したが実効性がなく、1860年4月に1両当たりの金量を約3分の1に引き下げる金貨の悪鋳を断行した。これにより金貨の海外流出に歯止めがかかったが、純金量が3分の1に引き下げられた万延金貨が大量に鋳造され、旧金貨に約二倍のプレミアムをつけて交換されために、国内の金貨流通量が著増してインフレーションが引き起こされた。インフレに苦しむ中、日本は明治維新を迎えたのだった。






金貨/銀貨の歴史


世界初の鋳造貨幣


BC610_Lydian_trite_15_r.jpgBC610_Lydian_trite_15_o.jpgLydian electrum trite (4.71g, 13x10x4 mm). minted by King Alyattes in Sardis, Lydia, Asia Minor (present-day Turkey), c. 610-600 BC世界で最初の鋳造貨幣は、紀元前670年頃、アナトリア半島に栄えたリディア王国(BC7世紀~547)が発行したエレクトロン貨(琥珀金貨)である。これは、バクトロス川の河床から得られた大粒の砂金すなわち自然金に王権を表す「極印」を打刻したものである。この自然金は、数%から数十%の銀を含む自然合金であり、淡黄色が琥珀を連想させるものであることから、ギリシア語で琥珀を意味するエレクトロンの名で呼ばれている。

発行された単位は以下のようになっている。

  • 3分の1スターテル starter =1トリテ trite (約4.7グラム)
  • 6分の1スターテル starter =1ヘクテ hekte
  • 12分の1スターテル starter =1ヘミヘクテ hemihekte
  • 96分の1スターテル starter =1リディアン Lydian (0.15グラム)

参考:A Case for the World's First Coin: The Lydian Lion

リディアでコイン鋳造が始まった背景を確認しておく。紀元前2500年頃、黒海北東部からカスピ海北西部の草原地帯に住んでいたインド=ヨーロッパ語を話す人々が、遊牧騎馬民族スキタイ Scythia やサルマティア Sarmatia の侵略に押し出される形でヨーロッパに移住し始め、紀元前2200年頃にその一部がギリシア人としてギリシア本土に侵入しミケーネやテーベやアテネといった都市国家を建設した。紀元前1200~1100年、鉄器を使うドーリア人 Dorians がギリシャ南部ペロポネソス半島を征服してミケーネ文明を滅ぼし、アテネのイオニア人 Ionians はミノア地方への移住を強いられた。そしてイオニア人の移住から400年後、このミノア地方を支配したリディアにおいて、世界初の鋳造貨幣エレクトロン貨が造られ、ギリシアから欧州へと広がったのである。これは非ギリシア系リディア人が自国で利用するためではなく、貿易決済においてギリシア商人達が貴金属での決済を求めたことに応えて鋳造されたものと考えられる。

紀元前560年、金と銀の精錬技術が発達し、リディアにおいて純度の高い金貨、銀貨が造られるようになった。

BC485_Achaemenid_coin_daric.jpgPersia. Achaemenid Empire. Time of Darios I-Xerxes II. Circa 485-420 BC. AV Daric (8.43 gm). Persian king or hero in kneeling-running stance right, holding spear and bow / Incuse punch. Carradice Type III.紀元前547年、リディアは、アケメネス朝ペルシア(BC550-330)に滅ぼされる。アケメネス朝ペルシアは、リディアの都でありコインの発行地でもあるサルディスを征服すると、そこでデザイン(リディア王家のライオンと牛)もそのままの金貨・銀貨を発行し、直接の継承者となった。また、税金を金で納税させた。紀元前520年~450年頃、ダレイオス大王 Darius I は通貨改革を行い、独自の「ダレイオス金貨 Darius」「シグロス銀貨 Siglos」を発行した。コインのデザインは、帝王または神格化された祖先(冠をかぶる人物が左手に弓、肩に矢筒をかけ、膝を曲げて右方向に向かう図)で、この図柄はアケメネス朝を通して使われた。

金貨は98-99%の品位で、バビロニアの重量単位シェケル shekel =8.33グラムを基準に作られた。

銀貨は、品位97-98%で、リディアの重量単位シグロ=10.83グラム半分約5.4グラムを基準にされた。

また1ダレイオス=20シグロスと定められたため、金銀比価は1:12.96であった。



ギリシアでの貨幣鋳造の発展


紀元前6世紀頃、リディアで発行された銀貨と同じ呼称を持つスターテル Starter 銀貨が、アテネやコリントで発行された。ギリシアで二番目に大きいユービア島 Euboeaにあったアッティカ Attica のイオニア人による植民都市国家 エレトリア Eretriaハルキス Chalcisは、地中海に商業的覇権を築いていたが、彼らは重量単位スターテル Starter 使用しており、これがアテネ(紀元前594年のソロンの改革まで)やギリシア諸都市でも共通に利用されていたことが、スターテル銀貨流通の背景となっている。もともと、重量単位スターテル Starter は、古代メソポタミアや紀元前8世紀に頂点を迎えたフェニキア諸都市で使用された重量単位シェケル shekel に準じて定められ、リディアで発行された世界最初の琥珀金貨もスターテル Starter を貨幣単位としていることから、リディアに始まった貨幣制度は、占領したアケメネス朝ペルシアだけでなく、ギリシアにも、ほぼそのまま伝播したと見做すことができる。ちなみに、エレトリア Eretriaハルキス Chalcisは、島の中央部にある肥沃なレランティン平原 Lelantine Plain の帰属をめぐって争い、他のギリシア都市国家を巻き込み古代ギリシア世界を二分する戦争 レランティン戦争 Lelantine War (紀元前710年~650年に間に発生)を引き起こしたと歴史家トゥキディデス Thucydides は記しており、その影響力が全ギリシアに及んでいたことが伺える。

古代ギリシアには2000もの都市国家が分立し、そのおよそ半分が独自の貨幣を鋳造しており、自国ポリス内での取引だけでなく、他国との交易にもこれを用いていた。

BC490_AtheneTetradracuma.jpgTetradrachm of Athens, BC 510 onwards. Obverse: a portrait of Athena, patron goddess of the city, in helmet. Reverse: the owl of Athens, with an olive sprig and the inscription "ΑΘΕ", short for ΑΘΕΝΑΙΟΝ, "of the Athenians"紀元前560年頃、アテネは、Laurium鉱山の豊富な銀を活用し、ドラクマ銀貨 drachma を鋳造した。他国との差別化を図るために、「銀4.3グラム=1ドラクマ」とするアテネ標準 Attic standard を採用し、これが地中海世界へ広がり、世界標準という地位を確立する。「ドラクマ drachm」とは、「一握りの」という意味であり、貨幣鋳造が始まる前に使われていた重量単位オボルス obols (鉄の棒)での秤量貨幣6個分の価値を表すことに由来する単位である。鉄は、武器や農具を作る原料であり、物品貨幣のような位置づけで使われたものとみられている。また、銀需要の高まりとともに、アテネは、豊富な金銀と木材を産するパンゲイオン鉱山 Pangaion hills の確保のために殖民を試み、BC465年にEnnea-Hodoi、BC437年にAmphipolisを建設している。

BC460_SyracuseDidraDrachma.jpgDecadrachma Silver Coin "Demareteion", BC 460, Syracuse, Sicily. On the front of the coin is a chariot drawn by four horses (a quadriga) with a figure of Nike, and a lion running below. On the other side is the head of the nymph Arethusa, surrounded by dolphins and the Greek legend 'of the Syracusans'. 貨幣の鋳造技術は急速に発展を遂げた。紀元前480年、ヒメラの戦いでカルタゴを打ち負かしてシチリア島を手に入れたシラクサの将軍ゲロン Gelon は、勝利を記念して、その妻 デマレート Demarete を象ったデマレテーオン Demareteion と呼ばれる10ドラクマ銀貨 decadrachm を発行したと、歴史家ディオドラス Diodorus が記している。大英博物館に収蔵されているコインは、同じシラクサの10ドラクマ銀貨と比較して著しく精緻で写実的な描写がなされ、その特別な存在感からデマレテーオン Demareteion 銀貨と見做されている。シラクサの銀貨は、古代世界で作られた最も美しい貨幣と見做され、コレクターの間で高く評価されている。





世界に広がった貨幣制度


紀元前322年、アテネを中心とする同盟軍との戦争 Lamian War に打ち勝ち、北ギリシアの偏狭国から全ギリシアの盟主にのし上がったマケドニア Macedonアレクサンダー大王 Alexander the Great (BC356年7月21日~BC323年6月11日)は、紀元前334年、弱冠22歳の身でありながら、アケメネス朝ペルシアダレイオス3世 Darius III (BC380~BC330)との戦いを皮切りに、インドのインダス川流域までに至る大遠征をおこない、古代世界において初めて世界帝国とも言える広大な領域を支配下に納めた。もともと、アレクサンダー大王の異母兄であり、マケドニアの前王であったフィリップ2世が、ギリシアのコリント同盟 League of Corinth から、第二次ペルシア戦争においてペルシア軍がアテネの神殿を焼き払ったことに対する報復の聖戦の盟主の任命を受け、トロイ Troy などペルシアの下におかれたギリシア人の解放を掲げて戦争をおこした。しかし、戦の半ばで、彼は暗殺され、20歳でマケドニア王位についたアレクサンダー大王が、ペルシアとの戦争を引継いだのである。

ギリシア文明の爆発的な拡張は、占領地となった中東からインドまでの土着文化と融合し、ヘレニズム文明と呼ばれる独特の文化を生み出した。その代表例の一つが、北インドで仏教等と結びついて誕生した仏像とそれを崇拝する独特の宗教様式であり、この仏教形態が、やがて800年以上をかけて日本にまで伝播し、今日も生き続ける仏教文化を形成した。

貨幣においては、ペルシアやインド北部でも、アテネのドラクマ銀貨が流通するようになり、後のこれらの地域における貨幣経済の発展に大きな影響を与えた。

ペルシアでは、1ダレイオス(金貨)=25アテネ・ドラクマ、1シグロス(銀貨)=7.5アテネ・オボルスと定められ、金銀比価は1:12.9とされた。



最初の世界通貨


312_Solidus_multiple-Constantine-thessalonica_RIC_vII.jpgコンスタンティヌス1世を描いたソリドゥス金貨(312年)世界貿易の一般的決済に広く用いられることになった金貨は、312年、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世によって鋳造され、ローマ帝国から東ローマ帝国時代を通じて鋳造され続けた金貨「ソリドゥス金貨 Sohdus」である(東ローマ帝国では「ノミスマ」と称された)。3世紀のローマ帝国は、全般的な混乱期であり、政治的混乱に加え、物価騰貴などの経済混乱に蝕まれていたが、この物価騰貴の収拾策としてコンスタンティヌス1世が採用したのが、通貨価値の安定を図るためのソリドゥス金貨の鋳造であった。金貨鋳造は、帝国統治における経済的な主柱となり、6世紀の『ローマ法大全』においても、金貨についての取り決めが多く記されている。金貨の金含有量は4.48グラムであったが、ローマ帝国法制度の下で、金貨の重量と純度が遵守されたため、信頼性が高く、それゆえに数世紀にわたって世界各地で流通した。



イスラム帝国の金貨


899_Aghlabid_dinar_Abou_Ishaq_Ibrahim_II.jpgAghlabid Gold dinar (1.8 cm, 4.3 g), minted in 899 AD during the reign of the Aghlabid emir Abou Ishaq Ibrahim II (reign 874-902 AD). Musée national des antiquités et des arts islamiques, Algiers, Algeria693年、勃興しつつあったイスラム帝国(ウマイヤ朝)は、「ディナール金貨 Dinar」という打刻金貨を発行し、これがビザンチン帝国領内で、「ソリドゥス金貨」に代わって流通しはじめた。

8世紀半ば、アッバース朝時代になると、銀本位制で「ディルハム銀貨」が使われていた旧ササン朝ベルンア領でも流通するようになり、9世紀にはイスラム帝国内は「金銀複本位制」へと移行した。当時、銀の主産地は、東部ペルシャ、アフガニスタン等であり、金の産出地は、ガーナ王国や、エジプトのヌビア(現スーダン)、黒海南西部などであった(ガーナ王国の金はムスリム商人によるサハラ交易によって岩塩と交換された)。「ディナール金貨」と「ディルハム銀貨」の法定換算比率は、「1ディナールニ20ディルハム」であったが、時代・地域によって変化してゆき、時代によっては「1ディナール=30ディルハム」という状況も発生した。


712_Umayyad_coin_Al-Walid_Dirham_IS7b.jpgAl-Walid Dirham Silver Coin, Persia, 712. 26mm / 2.86gしかし、10世紀の中頃、金供給が減少し、12~13世紀にはシリア以東ではディナール金貨は打刻されなくなり、大きな金額は「ディルハム銀貨」で決済されるようになった。

但し、西スーダンの金が供給されていたファーティマ朝などアフリカのイスラム諸国は、15世紀初頭まで、高品質の「ディナール金貨」を打刻し、これが地中海交易の中心的役割を担った。しかし、次第にイタリア諸都市国家の「フローリン金貨」や「ドゥカートDucat金貨」に押されディナール金貨は減少していった。




ピピン王によるペニー銀貨発行


755_Pippin_DenierSilverCoin.jpgAR Denier Silver Coin, FRANCE Carolingian Kings. Pippin III, the Short, 751-768. 1.17 grams.755年、フランク王国力ロリング朝初代王小ピピン(ピピン3世)が、「デナリウス銀貨 novus denariu (英語でペニー銀貨)」を発行し、「1ポンド(銀326g)=20シリング=240ペンスの単位から成る銀本位制度がヨーロッパ全土に広がった。1ペニーは銀1.36gである。

ローマ帝国では、小額貨幣として、紀元前211年からデナリウスdenarius銀貨(従量4.5グラム)が鋳造されていたが、ローマ帝国末期(紀元3世紀)には鋳造されなくなり、ローマ帝国崩壊後、ゲルマン系諸国(西ゴート王国、東ゴート王国、フランク王国など)がローマ帝国の貨幣制度を踏襲し、5世紀半~8世紀半までローマの貨幣を模したコインを鋳造していた。

小ピピンはこのローマ帝国から引継いだ通貨制度を再編し、「銀1ポンド(リーブルの翻訳語)=240ペニー(デナリウスの翻訳語)」と定め、当時、一般的に国際決済で流通していたソリドゥス金貨が、「1ソリドゥス金貨=12デナリウス」の交換比率を持っていたことから、「12ペンス=1シリング(ソリドゥスの翻訳語)」として用いられ、「1ポンド=20シリング=240ペンス」の貨幣体系を築いたのである。

小ピピンによって鋳造された「ペニー銀貨」は、その後の中世西欧の標準的なコインとなり、フランク王国分裂後、イタリアでは「デナロ」、フランスでは「ドニエ」、イギリスでは「ペニー」と各国で名称を変えつつ継承され、西欧共通の貨幣制度の基礎となった。


785_coin_offa_rev.jpgThe Inscription: OFFA REX ('King Offa') and Eð / IL / VA / Ld ('Ethilwald' - the moneyer who authorised the minting of the coin)785_coin_offa_ob.jpgSilver Penny from the reign of Offa, King of Mercia 757-796. Minted in London around 785ちなみに、イギリスで「ペニー銀貨」が最初に導入されたのは、757年、マーシア王国 Mercia のオッファ王 Offa によってであった。400年代から800年頃のイギリスは、7王国時代 Heptarchy と呼ばれ、進入してきたアングル人・サクソン人や先住民ブリトン人が幾つもの王国をつくって覇権を争っていた。アーサー王伝説は、ほぼ5世紀はじめ、ブリトン人の抵抗によってアングロ・サクソン人の侵入が長期にわたって停滞した頃の様子を反映していると考えられている。イギリスのハドリアヌス帝時代に築かれた壁より南部、帝政ローマの属州ブリタニアでは、ローマ人の入植でキリスト教が広まったが、5世紀にブリタニアがローマ帝国によって放棄されると廃れてしまっていた。七王国時代の初期の王は古代ゲルマンの多神教信仰だったが、6世紀になると、アイルランドで独自に発展と遂げたケルト系キリスト教が聖コルンバにより最北部ノーサンブリアに伝えられ、広まっていった。596年、ローマ教皇グレゴリウス1世が派遣した聖アウグスティヌスは、ケント王国のエゼルベルトを改宗させ、その地でカンタベリー大司教に就任し、ケルト教会に融和策をとりながら浸透してゆき、664年のウィットビー教会会議を期に完全にローマ教会の支配下においた。

こうして、中世初期から中期にかけて、西欧は「ペニー銀貨の時代」、つまり、銀本位制の時代となり、停滞していた経済は十字軍/自由都市/商業発展によって活性化されてゆく。



イタリア諸都市の金貨


1252_Fiorino.jpg1252年から発行されたフィレンツェ共和国のフローリン金貨。地中海貿易で広く使われた。中世後期、地中海貿易によって経済力をつけたイタリア諸都市国家に流入した金をもとに、1252年にフィレンツェ共和国が「フロー.リン金貨」を、1284年にヴェネツィア共和国も 「ドゥカートDucat金貨」を鋳造し始めた(品位はともに87.5%、従量56グレーン)。

この2つの金貨が広く貿易決済に利用され、欧州における国際通貨制度を再び実質的な金本位制へと移行させ、今日の貨幣経済の基礎をつくったとされる。特に、「ドゥカート金貨」は、欧州各国で鋳造されるようになり、1566年に法定され、実に1857年まで、欧州共通の標準的金貨として用いられた(近世のものは品位98.6%で3.4909グラム=金0.1107トロイオンスと変更されている)。



1382_VeniceDucat_AntonioVenierDegeLXII.jpgヴェネティア共和国 ドゥカート金貨 1382年頃13世紀、イタリアの金貨が鋳造され始めた頃には、「ソリドゥス金貨」は既に流通しなくなっており、さまざまな刻印の銀の延べ棒が国際的決済に利用されていた。「ソリドゥス金貨」が世界通貨の座から転落したのは、11世紀後半、金貨の純度が低下し、金含有量がもともとの4.48グラムの50%を切ってしまったことによる。コンスタンティノス8世(在位1025~1028年)以降、皇帝による国庫浪費の結果、国家財政が窮乏化し、金の含有量を減らし、鋳造差益を増大させ、財政難を逃れようとしたことが直接の原因であった。11世紀以降、東ローマ帝国はイスラム帝国(セルジューク朝)との戦いに敗れ国力が衰弱していたこと、更には金の供給量が減少して当時の貿易決済に必要な通貨量が確保できなくなっていたこともその背景として指摘されている。



新大陸からの銀流入と価格革命


16世紀、大航海時代が到来すると、銀の大量供給が起こり、「価格革命」と称される金銀比価や価格体系の大変動が生じた。その要因としては、①新大陸のポトシ銀山などから金銀が大量にヨーロッパに流入したこと、②水銀による銀の精錬法が開発され従来価値がないとされた低品位の銀鉱石から銀が取れるようになり銀の生産性が飛躍的に増大したこと、③戦国大名による金山・銀山開発競争と灰吹法による金銀地金の生産効率向上によって流通した大量の金銀が南蛮貿易を通じて金銀比価の高い欧州や中国へ流入したこと、などが複合的に働いている。

銀の大量流入がもたらした影響は、非常に広範におよび、欧州の経済構造に激変をもたらした。

  • 銀価格の暴落によって、南部ドイツなどの銀山の採算が取れなくなり、フッガ一家など同地の諸侯や商人たちの衰退をもたらした。
  • 「価格革命」と呼ばれる大規模インフレが発生し、イングランドやフランス・オランダでの工業生産増加・貿易活発化を促す一方、イタリアなどの地中海沿岸の諸都市国家の没落を招いた。
  • 1535年、大量の銀生産を背景にして、「メキシコ・ドル銀貨」の鋳造が、当時スペイン領であったメキシコで開始された。「メキシコ・ドル銀貨」は、「本国のスペイン・ドル銀貨」とともに、国際貿易決済に広く利用されるようになり、やがて、「アメリカ・ドル銀貨」の成立を促すことになる。
  • 16世紀、アジアでは、銀が相対的に高く評価されており、金銀比価は、中国「1:9」、インド「1:12」、朝鮮「1:10」であった。しかし、欧州では、金銀比価はrl:15」であったので、大量の銀が欧州・新大陸からアジアへ流入する一方、金が欧州へ流出した。17世紀前半、日本からの金銀の大量輸出の結果、東アジア全域で金銀比価の平準化が進み、一旦は「1:13」前後に収束していく傾向が見られた。1717年、科学者アイザック・ニュートンが造幣局長として定めたニュートン比価は「1:15.21」であり、アダム・スミスもヨーロッパとアジアの金銀比価の違いに関して言及している。




金本位制通貨ポンドの誕生


世界で初めて金本位制を採用するようになったイギリスが、金本位制へと移行することになった要因は、幾つかの歴史的偶然の重なりによるところが大きい。


ポルトガル経由でのブラジルからの金流入

第一の偶然は、ポルトガルと結んだメシュエン条約である。この条約は、1703年、イギリスとポルトガルの間で結ばれた通商条約で、ポルトガルが輸入禁制品に指定していた毛織物の輸出をイギリスに認める一方、イギリスはポルトガル産ワインの輸入関税を低率にするという内容のものであった。その後、18世紀にブラジルでミナス・ジェライス金山が発見されてゴールドラッシュが起こると、ポルトガルとその植民地ブラジルの購買力が急増し、イギリスは毛織物を輸出することで莫大な金を受け取るようになった。このブラジルからもたらされた豊富な金が、イギリスにおいて金本位制を実現させる基礎的な要因を成すこととなったのである。

ちなみに、イギリスでは中世末期から毛織物が盛んで、フランドルなどに比較的厚手の半完成品を輸出していた。この種の毛織物は薄手の新毛織物に対して、旧毛織物と呼ばれるが、主流が新毛織物へ変わると、イギリスはフランスやネーデルランドなどから新毛織物を輸入するようになった。スペインとの戦争で新毛織物の輸入が中断されると、ネーデルランド独立戦争の混乱を避けて英国へ亡命してきた新教徒(ユグノー)を集め、イギリス国内での生産を開始した。初期の綿織物工業には、大きな設備投資が必要ではなく、ロンドンに移住してきたユグノー達の主要な職業であり、必要な資金は借金で賄われ、その金融機能が、ユグノーの金銀細工士によるゴールドスミス・バンカーによって担われ、彼らの発行した金銀の預かり証書が、やがて紙幣となってゆく。また、地方の地主(ジェントリ)たちも毛織物業に参入し、蓄積された資本によって、後に綿織物工業を飛躍的に発展させ、産業革命につながってゆく。


イギリスとポルトガルとの関係は意外に深い。ポルトガルは、1580年から1640年にかけてスペインに併合されていたが、独立戦争を経て、1640年にブラガンザ公ジョアンがジョアン4世として即位してブラガンザ朝を開いた。しかし、独立を契機にポルトガル王政復古戦争が始まり、ポルトガル一国では対処できない事態となり、ジョアン4世は当初、スペインと敵対関係にあったフランスとの同盟を1641年に締結して牽制しようとした。しかし、1659年、ピレネ一条約によって、フランスがスペインとの和平を実現させた結果、同盟関係は無力化し、ポルトガルの独立は危うくなった。ジョアン4世は、次にイングランドとの同盟を画策し、娘キャサリン・オブ・ブラガンザCatherine of Braganzaを、8歳年上のチヤールズ王太子(後のチヤールズ2世)に嫁がせようとした。実は、縁談はカタリナが生まれた頃から画策されており、既に1640年12月1日に婚約が交わされていたが、その後、清教徒革命によってチヤールズ王太子はフランスへ亡命することになり、長らく棚上げとなっていた。1660年、イギリスで王政復古が果たされ、1662年に二人はポーツマスで結婚した。この結婚によって北アフリカのタンジールとインドのボンベイ(現ムンバイ)が持参金としてイギリスにもたらされ、後年イギリスの海外進出の拠点として重要な位置を占めることとなった。

更に、キャサリンは、貿易先進国として繁栄していたポルトガルの王女として、中国からもたらされる高価な茶(紅茶だけでなく緑茶も含む)を毎日飲むという習慣をイギリスに持ち込み、居所であったサマーセット・ハウスで訪問者に茶を毎日ふるまい大変な人気を博することになり、イギリスにおける喫茶の習慣が確立していく契機をつくった。また、スペインとの戦乱で荒廃した国土を復興するために、17世紀後半から葡萄やオリーブの生産が行われ、その葡萄によって作られたワインの主要取引先が当時のイギリスであったことが、先のメシュエン条約の前提ともなっているのである。



インドとの金銀比価の裁定取引


第二の偶然は、ヨーロッパでの金銀交換比率が「1:15」の時に、イギリスの植民地となったインドでは「1:10」と銀の価値が相対的に高く、金銀比価の差を利用した為替取引によって莫大な利益がイギリスにもたらされたことである。

例えば、イギリスから送付した銀10をインドで金1に交換し、その金をヨーロッパで交換すると銀15が得られ、銀5の儲けが出る。更に、この儲けに銀5を加えて銀10を再び送付してインドで金1に替え、得た金1をヨーロッパで銀に交換すると、更に銀5の儲けが出る。こうした価格差を利用した裁定取引が繰り返えされた結果、莫大な利益がイギリスにもたらされ、結果として、銀の流出、金の流入が継続的に発生することになった。これも、キャサリンがポルトガルからもたらした大きな恩恵である。



ニュートン比価による金退蔵


第三の偶然は、スペインの植民地メキシコのサカテカス銀山や現ボリビアのポトシ銀山など大鉱脈が発見され、南米からの銀の流入が続き、銀の価値が大きく下落したことである。金銀比価は、13世紀頃には「1:9」であったが、16世紀には「1:11」、18世紀の初めに「1:15」となり、銀の価値は百年以上にわたって下落を続けた。その後、東インド会社による彪大な銀の搬出のため、一時的に銀の価値下落は止まったが。1717年、造幣局長官Master of Mlntに就任していた科学者アイザック・ニュートンは、銀の価値下落を防ぐため、「1ギニー金貨=21シリング銀貨=1.05ポンド(金銀比価で1:15.2)」の公定平価を設け、通貨ポンドを金と銀とに一定割合で結び付けようとした。名目上、これは、金銀複本位制である。しかし、この金銀比価も、当時の欧州大陸に比べると金に有利となっていたため、イギリス商人は、支払いは銀で、受取りは金でおこない、結果として金の流入は止まらなかった。こうしてイギリスは、金の「実質価値」を尺度として銀貨が名目的な「額面価値」で流通する実質的な金本位制の国となったのである。

やがて、産業革命を経て経済規模が爆発的に拡大すると、高額貨幣であったギニー金貨も、取引に不便な珍しいコインではなくなっていった。金がイギリスに集中し、かつ世界的に植民地を持ち、貿易の中心となって決済のネットワークを構築したことが、金を本位貨幣とする基礎的要件となったのであった。



金本位制の正式な発足


1816年、イギリスは、「金本位法」を定め、 「金1オンス (約36グラム)=3ポンド17シリング10.5ペンス」として金を唯一の価値尺度とし、1817年7月にこれまでの「ギニー金貨」に代わって新しい「ソプリン金貨」を発行し始めた。このソプリン金貨は、近代における「金本位制」成立の記念碑的なコインと言えるだろう。

イギリスのコインの歴史については、このサイトhttp://www.coins-of-the-uk.co.uk/が詳しい。


金本位制と銀本位制の相克


1851年、ロンドンで万国博覧会が開催された。これは、ヴィクトリア女王の夫であるアルバート公や芸術・工業・商業振興のための王立協会メンバーによって近代の工業技術とデザインの祝典として組織されたもので、ハイド・パークに建設された会場クリスタル・パレス(鉄骨とガラスで作られた巨大建造物)は、産業革命の成果を世界中に知らしめる大英帝国の経済的繁栄の象徴となった。

1860年~70年代にかけて、世界的に、金本位制へ移行する国が相次いた。その背景には、産業革命とインドなど植民地経営によって未曾有の経済的繁栄を調歌していた大英帝国が金本位制を採用しており、貿易上・政治上、価値尺度を大英帝国にそろえておいたほうが有利だったためと考えられる。

この頃、イギリスと、世界経済における覇権を競って対立していたのがフランスである。フランスは、1803年、ナポレオン1世が「フランス貨幣法」を施行し、①品位90%の銀5gをもって貨幣の単位とし「フラン」と称する (90%の銀品位はCoin Snver、92.5%はSterling Snverと呼ばれる)、②金貨ならびに5フラン銀貨を無制限の法貨とする、③金銀比価を1対15.5とする、④金銀両本位貨についてはともに自由鋳造を認める、などと定め、「金銀複本位制」を採用したが、金銀比価の設定が銀に有利になっていたため、実質的には銀本位制として機能するようになった。フランスの金準備は、1870年当時、世界全体の金準備713トンの30%(217トン)を占めており、統計上はイギリスの23%(161トン)よりも多かったので、イギリスに対する対抗心から意図的に金本位制を避けたものと考えられる。

イギリスの金本位制、フランスの実質的銀本位制の二つの通貨圏のいずれに属することが貿易上・金融上有利かという観点から、多くの国は1860年代から1870年にかけて思案し、結果、大英帝国側につくことが有利と見て、一斉に金本位制へ移行したのである。

フランスと同じ実質的な銀本位制を採用していたベルギー、イタリア、スイスなどは、1860年頃から銀貨の流出・欠乏に悩まされるようになり、銀貨の純度を落とすことで対応しようとした。その結果各国の平価に乱れが生じ、国際的な貨幣の流通や決済に障害を生じるようになり、こうした無秩序を収拾するために、1865年にラテン貨幣同盟Latin Monetary Union(1865~1927)が締結された。フランス、ベルギー、イタリア、スイスの4力国は、1803年フランス貨幣法の規定を敷衍し、金貨/銀貨の品位は90%、金銀比価は「1対15.5」とした上で、①同盟国政府は同盟国の金貨並びに5フラン銀貨を無制限の法貨として自国貨幣と同様通用させること、②補助貨幣は一口の支払い50フランを限度として法貨たり得ることとし且つ同盟国間においては他の同盟国の補助貨をも自国貨幣と同様に受け取ること、③同盟国間においては同盟国の発行にかかる銀貨を金貨に引き換える義務があること、など共通の貨幣制度を定めた。その後、ラテン通貨同盟の加
盟国は、1868年にギリシャが加盟しただけで広がらなかったが、1868年にスペイン、1889年にはルーマニア、ブルガリア、セルピア、モンテネグロ、サンマリノなど多くの国々がラテン通貨同盟の基準を採用した。銀本位制を採用していたアメリカは、ラテン貨幣同盟が成立した1865年当時、南北戦争の混乱で銀梵換を停止しており、ラテン貨幣同盟への加盟を検討したが、結局は加盟も基準採用もせず、1847年にカリフォルニアで発見された金鉱山から始まったゴールドラッシュを背景に増大しつつあった金準備を背景に、実質的な金本位制へと移行したのである。



中国の銀本位制度


アジアにおける銀本位制度の中心は中国であった。

金は、中国の歴史上、殷(紀元前17世紀~紀元前1046年)の時代には既に装飾品として使われており、春秋戦国時代になると「貨幣」や象嵌材料として使用されていたが、殷代からの青銅器文化の伝統が根強く生き続け、歴史的に、法定通貨としては「銅銭」が使われるようになった。


貝貨


中国では、殷(BC1675–1029)の時代に先立つ新石器時代から周(BC1046-256)の8世紀に至るまで、貝が貨幣として使われており、これらを「貝貨幣」「貝幣」と呼んでいる。貨幣関係の漢字に貨・財・寳・貯・買・購・賃・貴・販・貧・賠・償など文字構成の一部分に貝の字が使われていることや、現存する貝貨によってその状況が確認できる。使われたのは、ヴェトナムなど南海産のタカラ貝で、背面に穴を開けたり、削り取って磨くなどの加工が施されていることが多い。また、入手し易い淡水の貝の貝殻や獣骨、玉、銅などを使ってタカラ貝の形を真似た倣製貝貨もつくられた。

タカラ貝は、その光沢、形状、希少性から装飾品・贈答品として珍重され、やがて物々交換の仲立ちとして利用されるようになり、一般的な価値表示機能を有する代表的な物品貨幣として利用されるようになった。個数、重さに応じて使われた他、多くの場合、穴を開けてひもを通して束ねた「朋」と呼ばれる単位で取引された。



青銅貨幣


紀元前8世紀頃、春秋時代(BC770–476)に入ると、農具や刀など物の形をかたどった多様な青銅貨(刀貨や布貨など)が作られた。もともと青銅器は、殷や周の時代において呪術的な役割で用いられており、時代が下っても、小刀、器物、農具など実用品は鉄で作られ、青銅製のものは呪術的意味を纏った装飾品や贈答品として王侯貴族の間で悦ばれていた。こうした地金としての価値に加え、贈答品としての形状を与えて小さな装飾品のような外見を与えることで、所有欲を高めたのだと考えられる。

初期には銅地金の重さに応じて価値を表す秤量貨幣として使われたが、やがて以下のような一定の形・重量で鋳造されるようになった。

  • BC700_聳肩空首布.jpgBC6世紀、聳肩空首布、晋(BC1100-376)、衛布貨(ふか):西周末頃から最初に現れた形態であり、古代の鋤(鏟)の形をしており、で用いられた。布銭、布幣ともいう。鋳造年を示す干支、鋳造地名、貨幣単位を表す数値などが記されていることも多い。「斤」という重量単位が布貨の貨幣単位に転用され、地方ごとの計量基準の差によって、1斤=12~18グラムであった。形状としては、実際に使用する際に木棒などを取り付けるための空洞の首がついている「空首布」は、春秋初期から戦国中期にかけて中原地方を中心に周・晋・鄭・衛でつくられ、首部分が平らになり小型軽量化された「平首布」は、戦国早中期から晩期にかけて、三晋(韓、趙、魏)・周(東周、西周)・燕・楚・中山などでつくられた。
  • BC700_刀幣.jpg反首刀(斉刀)。BC380年頃、田斉(BC386-221)刀貨(とうか):木簡・竹簡に書いた間違った文字を削る消しゴム的用途に使われた「削」という小刀を発展させた青銅製の貨幣である。文人にとって「筆」と「削」は必需品であり、書記官は「刀筆の吏」と呼ばれていた。西周から春秋にかけて、布幣にやや遅れて登場し、黄河流域の斉から北方の燕・趙でつくられた。「反首刀」は、最も大きく、平均40~50グラム、中には60グラムのものもあり、斉の地名が記されていることから「斉刀」と呼ばれる。「尖首刀」は、燕のうち河北省を中心とした地域で出土し、記号的な文字や数字が刻まれている。「方首刀」は、「尖首刀」の刀身の先端部分が方形になったもので、燕、趙にまたがる広い地域で大量に出土している。「方首刀」には「明」という文字が刻まれていることから「明刀」とも呼ばれるが、字義の解釈には地名などとする諸説ある。字体から鋳造年代を区分する見解もある。「円首刀」は、趙を中心に出土し、全体的に薄手小型で、刀幣の中でも後期のものと考えられる。
  • 蟻鼻銭(ぎびせん):倣製貝貨の流れを受け継いだ形をしており、楚で用いられた。
  • 環銭(かんせん):円状の青銅板の中心に丸あるいは正方形の穴を空けた輪のような形をしている。戦国時代の後半から用いられ、秦を始め各地で用いられた。

また、春秋戦国時代(BC475-221)には、金銀を通貨の代用品として高額の支払に用いる例が増えてくるが、孔子をはじめとする儒学者は重農主義・身分制重視の立場から、金銀による支払は商人の力を強化するだけで社会秩序を崩壊させるだけだとして強く批判した。中国統一を果たした秦は金貨を発行したものの、儒教が国教化された前漢以後明に至るまで金貨・銀貨の発行がほとんど行われず、却って金銀による支払を厳しく規制した背景にはこうした思想的な問題があったとされている。



統一通貨「半両銭」


BC221_Qin_BanLiangQian.jpgBan Liang Qian (half liang money) of Qin and Early Western Han Dynasty中国統一を果たした秦(BC221–206)始皇帝は、各地でばらばらの貨幣が使われる状況を改め、秦の半両銭 ban liang qian という環銭の形に銭貨を統一した。中心に正方形の穴を持つ環銭の形状は、東アジア全域において貨幣の標準的形となり、二千年にわたって生き続けることになる。秦で使われた貨幣単位の「」は、重さの単位であり、1両=24銖(1銖=約0.67グラム)であり、半両銭は12銖=約8グラムとなっている。

漢(BC 206-8)になると、より軽くするために半両銭を改鋳し、民間の貨幣鋳造を認めたりしたために混乱が広がった。




漢の五銖銭


BC118_WuZhuQian_Han.jpgWu Zhu Qian (five zhu money)紀元前118年、武帝は、半両銭の鋳造をやめ、新たに「五銖銭 Wu Zhu Qian 」を鋳造し、銭貨の偽造を厳しく取り締まる通貨改革をおこなった。これによって、民間による鋳造(私鋳)が止み、通貨発行権を国に取り戻すことができた。五銖銭には、五銖という文字が刻まれ、重さも5銖あった。1=24銖(1銖=約0.67グラム)である。五銖銭は、その後一時期を除いて、唐初頭の621年に「開元通宝」が発行されるまで739年間にわたって用いられた。


王莽銭

14_一刀平五千.jpg契刀「一刀平五千」:新 王莽7年、7.32cm、29.9g前漢から簒奪して、新(AD 8-23)を建国した王莽は、春秋戦国時代に用いられていた刀貨のような形をした契刀・錯刀を貨幣として造った。

さらに9年宝貨を定めて、契刀・錯刀・五銖銭の使用を禁止した。宝貨には、下のようにさまざまな材質や形態のものがあった。

  • 銭貨(重量が12銖以下の青銅貨幣、6種類)
  • 布貨(重量が15銖以上の青銅貨幣、10種類)
  • 亀貨(亀の甲羅でできた貨幣、4種類)
  • 貝貨(貝殻でできた貨幣、5種類)
  • 金貨(1種類)
  • 銀貨(2種類)

これらは従来の五銖銭に比べて不便であったため、民衆は五銖銭を使い続け、それを密造するようになり、王莽銭はたった4年で廃止された。


王莽は、新たに「貨布」「貨泉」を発行した。その比価は「貨布1:貨泉25」とされ、両者とも広く使用されて、日本でも弥生時代の遺跡から出土している。

  • 貨泉(王莽銭):円形方孔、重量5銖の銅銭で「貨泉」の銘
  • 貨布(王莽銭):鏟の形状を模した青銅製の布銭で「貨布」の銘9_kafu.jpg貨布:新の王莽14年(20年?)、5.75×2.3cm 18.7g、貨布一枚で貨泉25枚の価値があった。






五銖銭の復活


後漢(AD 25-220)を建国し即位した光武帝は、40年(建武16年)、王莽銭を廃止し、「五銖銭」の制を復活させた。しかし、後漢末期になると、戦乱によって貨幣の品質が劣化し、魏晋南北朝時代を通じて、銭貨の鋳造量は減り、民間での鋳造が増加し、貨幣経済は衰退した。その過程では、梁の武帝が青銅でなく鉄銭を鋳造させて銭100枚の重さを1斤2両(432銖)と定めたり、北魏で金貨・銀貨が用いられて大きい銭を鋳造して五銖銭10枚分として通用させるということも起きたが、混乱を招くばかりで定着しなかった。各政権が様々な基準の銭貨を発行したために、重さによって貨幣価値を計ることが行われなくなり、代わりに銭貨の枚数もしくは一定数量を1組とした銭さし(銭繦/銭貫)の数によってやり取りされるようになった。この時期に「文」「陌」「貫」などの通貨単位が初めて出現した。

中国を再び統一した隋は、貨幣の統一を試み、隋が鋳造した五銖銭でないものは没収するなどして一定の成功を納めたが、隋はすぐに滅び、粗悪な銭貨が流通するようになった。




唐の開元通宝


621_KaiYuanTongBao_Tang.jpgKai Yuan Tong Bao of Tang.621年、の初代皇帝となった李淵は、新しい貨幣制度を定め、「開元通宝」を発行し始めた。開元通宝の重さは2.4銖とされ、唐では1銖=1.55グラムであったため、3.73グラムとなり、3グラム強であった前漢の五銖銭よりやや重くなった。従来、銭貨の名称は「」を基準とした重さで価値を表していたが、開元通宝は重さを表示しておらず、その後、銭貨に重さを書かなくなった。

開元通宝は五代十国時代までおよそ300年にわたって通用したが、この時採用された通貨の形式は、その後、1200年間以上にわたって維持された。845年、中国の4600以上の寺院が廃止されたとき、仏像や鐘など大量の青銅が溶解され、政府は地方で開元通宝を鋳造させるようになり、裏面に鋳造場所を示す一字を加えるようになった。

唐の粛宗時代の宰相・第五琦は、「乾元重宝」「重輪銭」の鋳造を開始した。この2種類の貨幣の重さは開元通宝の約2倍しかなかったが、「乾元重宝1枚=開元通宝10枚」、「重輪銭1枚=開元通宝50枚」の価値として通用させ、高額貨幣の流通量増加によってインフレーションが発生して人々は困窮した。代宗の頃には、乾元重宝も重輪銭も開元通宝と同じ価値とされたが、そうなると、開元通宝より重い乾元重宝・重輪銭は用いられなくなった。

五代十国時代には、開元通宝のような銅銭が鋳造されたほか、閩・楚・蜀(前蜀・後蜀)では鉄銭も鋳造された。



宗の通貨改革と元号による通貨発行


の初代皇帝となった趙匡胤(太祖 在位960-976)は、その建国の年960年に開元通宝とほぼ同形・同重量の「宋元通宝」の鋳造を開始した。地方軍閥の勢力削減を目標に軍制改革を行い、文官優位の官制改革を断行し、科挙を整え,皇帝独裁機構の確立に努めたが、地方軍閥の財政基盤となっていた各地での通貨発行権を取り上げ、粗悪な銭貨の使用を禁止したのである。しかし、日常の支払いに用いられた鉄銭や、唐以来の高品位を維持していた開元通宝はそのまま使用し続けることが許された。むしろ四川・陝西では遼・西夏への銅の流出を防止するために、銅銭の所有・使用一切を禁じられ、代わりに鉄銭が強制的に流通させられた。

その後を継いだ太宗 (在位976-997)は、「太平通宝」「淳化通宝」を鋳造したが、淳化はこの当時使われていた「年号」であり、以降元号が変わるごとに、銭貨の名前とその銭貨に刻まれる文字が変わるようになり、清が滅亡するまで1000年にわたり、中国王朝の発行する銭貨は基本的に「元号名+通宝(あるいは元宝)」と名づけられ鋳造されることになった

は、池州・饒州・江州・建州に銅銭の鋳造所を、卭州・嘉州・興州に鉄銭の鋳造所を設け、銭貨(宋銭)の鋳造量は歴代の王朝の中で最大となったが、経済規模の発展が銅銭発行量を上回り、また日本をはじめとするアジアの国々が信用価値が高い中国の銅銭を輸入して自国で通用させたために、「銭荒」と呼ばれる極端な銅銭不足の事態が続いた。




世界最初の紙幣・宗の交子


1023_交子_仁宗.jpg額面770貫(77000銭)の交子は、国家として世界最初の紙幣を発行したことで有名である。1023年、仁宗の頃、「交子」は、政府が鉄銭を準備金として備えた上でその交換を保証する兌換紙幣として発行され、世界最初の紙幣とされている。しかし、遼・西夏との戦費支払いに充てるため濫発され、準備金枯渇によって不換紙幣に転落し、紙屑同様となって流通しなくなった。ついで「銭引」が発行され、南宋になって「会子」が発行されたが、いずれも、財政難を賄うために濫発され、インフレーションを招き、やがて流通しなくなり、鉄銭・銅銭に加えて、銀の地金での決済が盛んに行われるようになり、中国は実質的な銀本位制へ向けて動き始める。

歴史的には、唐代に「堰坊」という銭・金銀・布帛などを預かって預り手形「飛銭」を発行する銀行のような機関が存在していた。「飛銭」は、他の地域においても、現物と同じ価値を持った鉄銭と交換できるため、重い銭を持ち歩く必要が無いため、重宝され、決済手段として流通していた。「堰坊」そのものは、後に堕落して賭博場のようになったが、預り手形を用いた決済方式は、全国的に広がり、宋代になると「交子」「会子」「関子」などの手形が発行されるようになったのである。
四川地方は銅の産出量が少なく、商業活動の活発化にともなって銅銭の需要が増大したにも関わらず需要を満たす銅銭を確保出来ず、五代十国時代の前蜀および後蜀は、産出量の多かった鉄を使用して鉄銭を発行していた。宋になっても、銅銭不足が続き、しかも西夏などの新興の非漢民族政権が成立し、四川地方がその勢力圏に近接していたため、銅銭の流出を恐れた宋は、四川地方について鉄銭の使用を強制していたのである。

しかし、鉄銭は銅銭の十分の1の価値しかなく、特に商業上の高額決済には、重く、持ち運びに不便であった。そこで、四川地方の中心都市・成都にあった16の交子鋪が組合を作り、鉄銭を預かって、その預かり証書として「交子」を発行していた。は、この16の交子鋪に「認可」を与え、四川地方に於ける「交子」の独占的発行権を認めることによって、「交子」を唯一の紙幣発行権を持つ銀行が発行する「銀行券」という位置づけにして、「信用」を高めた。こうして、四川地方の「交子」は、鉄銭よりも重用されるようになり、他の土地で政府認可なしに発行された預かり手形でしかなかった「交子」や「会子」を圧倒する通用力を獲得したのである。しかし、その後、四川の「交子鋪」は、事業に失敗し、銅銭の準備高が足りなくなり、「交子」と鉄銭の交換に応じられずに不払いを起こしてしまう。

1023年、は、交子の利益に目を付け、民間でこれを行うことを禁じて、交子発行を官業として独占する。政府は本銭(兌換準備金)として鉄銭36万緡(貫)を備え、発行限度額を125万余緡(貫)として、「交子」を流通させた。ここに至って「交子」は、預り手形ではなく、政府が発行する「紙幣」となったのである。「交子」には「界」と呼ばれる交換期限が設けられ、二年ないし三年以内に、鉄銭または新しい交子と交換せねば通用力を失い単なる紙切れと化すという制約が設けられていた。これは、兌換準備金と「交子」の発行残高の棚卸しを行い、準備金を超えた発行を禁じ、不渡りの発生を回避するための工夫だったと考えられる。「交子」は、その利便性から需要が増え、広く流通していった。

は、遼・西夏との戦争費用の支払いに充てるために、1072年に発行額を倍増し、徽宗の1106年には2600万緡(貫)と発行額は当初の20倍以上に膨れ上がった。準備金の限度を超えた濫発により、兌換停止に追い込まれ、「交子」の価値は一気に下落し、「額面価値」一貫の交子が「実質価値」銭十数文としか交換されない紙屑になり、「交子」は全く流通しなくなった。

1107年、は、「交子」に代わって「銭引」を発行するようになったが、南宋に至って再び財政難から濫発され、代わって「会子」が発行されるようになる。

南宋は、金との間に屈辱的な和平を結ぶが、平和が維持され、江南開発によって経済力は増大した。干拓、竜骨車による灌漑、旱に強い占城稲の導入、二期作や麦との二毛作などによって、長江下流域都市蘇州や湖州は稲作農業の中心地帯となり、飛躍的な経済繁栄をもたらした。長江下流域や四川を中心に、茶の栽培も普及し、専売も行われ、日本に臨済宗を広めた僧・栄西(1141-1215)が1168年、1187年に宋を訪れ、日本に抹茶をもたらした。茶は生活品だけでなく貿易品としても多大な役割を果たした。飲茶の普及にともない、青磁や白磁が景徳鎮や磁州といった窯業都市を中心に生産された。他にも漆器や絹織物などが発達し、茶・陶磁器・絹織物は当時宋の3大貿易品となった。貿易の発達によって、杭州・明州(寧波)・泉州・広州などの海港都市には、市舶司という海外海上貿易の統轄官庁が置かれた。




金の交鈔


1158_正隆元宝_金.jpg金の銅銭「正隆元宝」、1158年頃遼(契丹)の支配下にあったツングース系女真族は、1125 年に遼、1127 年に北宋をを滅ぼして金を建国した。建国から10 年余りで中国東北部から内モンゴル、黄河流域一帯の華北にわたる広大な地域を領有するに至り、江南に逃れた南宋と中国を二分した。貨幣流通については、建国当初は銅銭主体であったが、南宋等との対外戦争による政治・経済状況の変化の中で、銅銭と紙幣の併用、さらには紙幣と銀との併用へと変遷していった。

1158 年、四代海陵王は、交易等による銅銭の国外流出・銅銭不足を背景に、金独自の銅銭「正隆元宝」を鋳造・発行した。海陵王は、1161 年に、中国統一を狙い大軍を率いて南征するが失敗に終わり、軍事費の膨張で深刻な財政難を招いた。五代世宗は、財政難と支払いに充てる銭貨不足に対処すべく、銅銭「大定通宝」の鋳造を本格化させたが、領内での産銅不足と鋳造コスト増大から、世宗期の末には、銅銭の鋳造は停止され、銭貨不足対策は行き詰まってしまう。当時、銅銭14 万貫(1 貫􀀀 1000 文)を鋳造するために、80 万貫の費用を要したとされる。



1154_交鈔_海隆王.jpg海陵王貞元二年(1154年)発行の「交鈔」銅銭不足と財政難の解消のために、既に四代海陵王は、手形「交鈔」を財政支出に利用するようになっていた。交鈔は、地域間の交易に従事した客商が遠隔地に向かう際、重量の嵩む銅銭の携行を回避するために利用され、銅銭で交鈔を買い、手数料とともに引換機関に持ち込まれると、銅銭に引き換えられる預り証書だった。また、7 年の流通期限「界」が定められ、期限が到来すると回収されるか、新しい交鈔と引き換えられていた。金政府は、「交鈔」を財政支出に用いるに際し、流通期限を廃止し、租税支払い等への使用も認め、兌換紙幣として流通させようとした。

その後、タタール等の遊牧民族との交戦(1195~1196 年)、南宋との交戦(1206~1208 年)に伴う軍事支出増大の中で、銭貨不足対策として民間が備蓄する銅銭を吐き出させる「限銭法」を実施するが効果は乏しく、「交鈔」が、政府準備金の銅銭を超えて増発されたため、「交鈔」の価値下落は急落し、流通しなくなった。そこで金政府は、徴税を通じて交鈔を回収し、流通量を削減することで紙幣の価値の維持を図ると同時に、交鈔を不換紙幣化し、この紙幣供給量のコントロールが奏功し、紙幣の信用力が高まり、発行・流通量は拡大ていったとされる。




銀錠


1220_銀錠_金.jpg13世紀、金の銀錠章宗時代、対外交易や南宋との和議に基づく歳幣(毎年の貢物)として獲得した銀25万両を用い、「承安宝貨」という銀貨を鋳造した。銅銭の代わりに銀による交鈔の兌換を狙ったが、銅・錫を混ぜた粗悪品が出回り、鋳造は短期間で停止された。銀貨鋳造が試みられたのは、市場では銅銭不足や不安定な紙幣流通の中、民間の銀荘が鋳造する、「銀錠」の使用が一般化していたためであったが、客商と結託した銀荘は、その鋳造権に基づく利益を手放そうとはせず、政府による通貨管理に抵抗するようになっていた。

1211 年、モンゴルの侵入が始まると、財政窮乏化は深刻の度を増し、交鈔のほかに何種類もの紙幣が濫発され、紙幣価値は暴落した。紙幣の流通促進策として、銅銭の使用を禁止するが、銅材・銅器等へ銅銭を鋳潰して秤量貨幣として利用する動きを助長し、銅銭の絶対量をさらに減少させる悪循環を生んだ。こうした紙幣価値の暴落、銅銭の絶対量の減少は、銀の貨幣的使用を昂進させていく。金末のこうした貨幣流通状況は、その後、金、南宋を滅ぼし、中国を支配するモンゴル(元朝)の貨幣政策に大きく影響を与えた。



元の交鈔

モンゴルは、1234 年に金を滅ぼした後、世祖フビライ(在位1260~1294 年)が即位すると、首都をカラコルムから大都(北京)へ移すとともに、国号を中国風の元(1271~1368 年)と定め、1279 年には南宋を滅ぼして中国を統一する。

元は、商業を重視し、東西交易路の確保や、江南の米等を華北へ搬送するための運河の整備等を進めるが、物流の円滑化とともに貨幣を統一し、膨大な貨幣需要を満たす必要に迫られる。当初、元は、金・銀・銅銭を貨幣として用いていたが、オゴデイのころに「交鈔」を発行し始めた。1260 年、フビライは「中統元宝交鈔」を発行し、銭貨の使用を禁止し、紙幣を唯一の通貨とする通貨政策を打ち出した。

華北では、銅銭は国外流出や鋳潰し等により絶対量が不足し、地方の軍事勢力により発行された各種紙幣のほか、銀や絹が主たる貨幣となっていた。銅銭は銅原料・資源の制約から大量鋳造が困難であり、銀は対西アジア交易の支払い手段として確保しておく必要があるため、低コストで迅速かつ大量に製造が可能な紙幣を唯一の法定通貨として発行するしか方法がなかった。紙幣は、金末期に軍事勢力による濫発によって信用を失っていたが、元では徴税による政府への銀の回収が進み、これを準備金とする「中統元宝交鈔」は受容されていく。南宋では対金戦争時に紙幣「東南会子」が発行され、紙幣流通の素地があった。

フビライは、紙幣を回収して流通量を調整し、紙幣価値を安定させる制度を整備し、元の紙幣は安定的に流通した。

  • 民間での金・銀の売買の禁止
  • 銭貨の使用禁止
  • 紙幣と金・銀との兌換機関「平準庫」・「平準行用庫」の設置
  • 傷んだ紙幣の交換機関「回易庫」の設置
  • 政府の専売品である塩の購入代金を紙幣で支払うことを義務付け
  • 紙幣による納税を義務付け
  • 有効期限を持たない基本貨幣として紙幣を位置づけた
  • 「交鈔」は、金銀との交換を保障する兌換通貨とした


しかし、日本(1274・81年)やベトナム(1284・87 年)への出兵、南宋併合等に伴う財政支出の増大を背景に、「中統元宝交鈔」の発行高が急増し、紙幣価値の下落を招いた。

1287 年、「中統元宝交鈔」の五倍の価値に当たる新紙幣「至元通行宝鈔」を発行し、民間で価格表示基準として浸透していた「中統元宝交鈔」の通用を認め、新旧紙幣の併用体制とする。一時的な新紙幣・銅銭の発行(1309~1311 年)という曲折を経るが、価値下落をはらみつつも、元末の1340 年頃まで比較的安定した流通状況が続く。

1340 年代後半になると、朝廷内が権力争いで混乱状態となる中で、各地での反乱に対処するための支出拡大で紙幣が濫発され、紙幣の価値下落が顕著になる。1350 年、銅銭「至正通宝」を鋳造・発行するとともに歴代銭貨の通用も認め、またこれら銭貨と等価とする新たな中統鈔(銭貨1000 文􀀀中統鈔1 貫)を発行し、銭貨により紙幣価値の保証を図る改革を断行する。

しかし、紅巾の乱(1351~1366 年)が起こり、元朝の支配力が低下する中で、銅銭に対する紙幣価値の暴落により、元朝による紙幣制度は破綻・崩壊を余儀なくされ、ほどなく元朝は滅亡する。



明の宝鈔


明は、「宝鈔」という不換紙幣と銅銭を併用した。金銀を貨幣として利用することは禁止され、更に1392年から1435年までは銅銭の使用も禁じられた。「宝鈔」は価値が継続的に下落して使われなくなり、高額決済のために「銀」が通貨として用いられるようになった。金銀の貨幣利用を禁止していたが政府も、民間の銀使用の流れを止めることができず、税金納付に銀を使うことを認めた。イスラム諸国やヨーロッパとの貿易が盛んになり、これらの国々が銀による決済を望んだ事も、銀の流通を促した。一方これによって生産能力が乏しかった銅銭の地位が低下して、「永楽通宝」などは日本などとの貿易決済などに回される事が多くなり、銅銭の発行自体がなくなっていった。

清代も基本的に明代と同じような通貨政策がとられた。



民間による銀錠の鋳造と流通=実質的銀本位制の成立


10世紀以降、宋や元の時代になると、「銅銭」が不足し、銅銭に代わって「紙幣」や「銀(銀地金や銀製品)」が通貨の替わりに用いられるようになった。銀が高額決済に一般的に使用されるようになっていたにも関わらず、明王朝は、「銀貨」の鋳造を行わなわず、伝統的な「銅貨」のみ鋳造していた。そのため、銀を通貨として用いる際の利便性を高めるために、「銀錠(馬蹄銀)」と呼ばれる銀の塊が秤量貨幣(従量で価値を表す貨幣)として用いられるようになり、銀の「重量」がそのまま「価値」として認められ流通するようになった。すなわち、「両」を基本単位として、10分の1を「銭」、その10分の1を「分」とする重量単位がそのまま貨幣単位として用いられたのである。銀錠の鋳造は、政府ではなく、銭荘(両替商)の自由鋳造にまかされ、貨幣と言うより銀のインゴットに近かった。

銭荘の起源は、宋代にあった銅銭・銀錠・交子の両替業務などを営む「梵房」であり、これが明の頃に「銭舗」と呼ばれるようになり、清の乾隆年間(18世紀後期)に現在の江蘇省・浙江省・福建省などで「銭荘」の名称が用いられ、これが中国全土に広がったものである(山西省には同様の役割を果たした票号が存在した)。

銀は、事実上の本位通貨として高額取引・遠距離間取引に不可欠であったにも関わらず、各王朝が銀貨を鋳造しなかったため、銀塊である銀錠と日常的支払い手段であった銅銭とを交換して手数料を得る「両替業」が発展し、19世紀に入ると、銭票(荘票)と呼ばれる銅銭との引換可能な小額紙幣を発行し、預金・払出し業務も行うようになった。更に、出資者による銀預金を元手とした銀票の発行をはじめ、他地域との品位の異なる
銀錠の交換、会票と呼ばれる為替発行、など今日の銀行業務に近い業務を行うようになった。銭荘の金融業務を支えたのは牙行などの同業者組合であり、個々の銭荘が発行した銭票・会票は、牙行を介して広範な決済が行われていた。




茶・陶磁器・絹の輸出による銀流入とアヘン戦争


清帝国も、銀錠(馬蹄銀)を用い、少額取引には官製銅貨(制銭)を利用した。蘭・英など東インド会社との貿易が盛んになるにつれ、世界的に外国貿易決済で利用されていたスペイン・ドル銀貨やメキシコ・ドル銀貨など洋銀が大量に中国に流入し、中国国内でも秤量貨幣として流通した。

イギリスでは、17世紀半ばから喫茶の風習が上流階級の間に広がり、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入する一方、イギリスから清へ輸出されるものは時計や望遠鏡のような皇族向けの物品はあったものの、大量に輸出可能な製品が存在せず、イギリスは大幅な輸入超過に陥っていた。イギリスは、アメリカ独立戦争の戦費調達、産業革命に必要な資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制するために、植民地インドで栽培したアヘンを清に密輪し、自国の貿易赤字を相殺する三角貿易を考え付いた。清帝国は、1796年(嘉慶元年)、既にアヘン輸入禁止令を出しており、19世紀に入ってからも幾度となく発せられたが、イギリスが裏で糸を引くアヘン密輸は止まず、国内にアヘン吸引の悪弊が広まり、健康を害する者が増加し、風紀も退廃していった。

大英帝国による三国貿易によってもたらされた中国のアヘン輸入量は、1800~01年の約4500箱(一箱約60kg)から1830~31年には2万箱、1838~39年には約4万箱に達し、その代価として1830年代末には毎年清朝国家歳入の80%に相当する銀が国外に流出した。銀の大量流出は、国内の銀流通量を著しく減少させ、銀貨の高騰を引起した。銀貨と銅銭の交換比率は、銭荘によって実勢相場で決められ、18世紀後半の乾隆帝時代には銀1両(約37g)=銅銭700~800文であったものが、1830年には1200文、1830年代末に
は最大で2000文に達した。清の税額は銀建て(銀何両)で指定されるが、農民が実際に手にするのは銅銭であったため、銀貨が高騰すると納税額が増加することになり、国内経済は疲弊していった。

1838年、道光帝によってアヘン密輸取締まりのために広東に派遣された林則徐は、「今後アヘンを清国国内に持ち込まない」という誓約書を提出した業者にしか貿易を認めないと欧米列強へ通告した。これに対し、1839年、英国は林則徐によるアヘン貿易拒否を口実に戦火を開き、清国船団を壊滅させた。イギリス議会では、「麻薬の密輸」という開戦理由に対して、野党保守党ウィリアム・グラッドストン(後の自由党首相)らを中心に「恥さらしな戦争」に反対する声が上がったが、清への出兵に関する予算案は賛成271票/反対262票の僅差で承認され、イギリス東洋艦隊が派遣された。1842年、南京条約が調印され、阿片戦争は終結した。清は、①多額の賠償金の支払い、②香港の割譲、③広東・厘門・福州・寧波・上海の開港=アヘン貿易の実質的公認、更に翌1843年の虎門秦追加条約で、④治外法権、⑤関税自主権放棄、⑥最恵国待遇、などを認めることを余儀なくされた。更に、アメリカとの望厚条約、フランスとの黄捕条約、などを押し付けられ、清は独立国としての威信を失った。イギリスは、①中国を中心とする朝貢体制の打破、②厳しい貿易制限の撤廃二自国商品の中国への自由輸出、を目的としていたが、南京条約によってもイギリスの綿製品輸出は全く伸びず、商業利益が上がらない原因を清の貿易機構に求め、再び戦争を起こして条約改正を行って自由貿易を推進するべきだとの意見がイギリスの政界で強まった。1857年、アロー号に対する清の臨検を口実にアロ一戦争を仕掛け、1860年には北京を占領し、北京条約を締結し、清は実質的な植民地へ転落したのである。まず、天津条約で、①公使の北京駐在、②キリスト教布教の承認、③内地河川の商船の航行の承認、④英仏に対する賠償金、⑤関税率改定によるアヘン輸入公認化・促進、などがきめられ、更に北京条約で、⑥天津の開港、⑦イギリスに対する九竜半島の割譲、⑧中国人の海外への渡航許可(中国人労働者を劣悪な条件で移民させる苦力貿易公認)、が取り決められた。こうして、中国はイギリスを中心とする欧米列強の植民地となった。

アヘン戦争後、外国銀行め中国進出が盛んになったが、銭荘は却って発展した。理由としては、①銭荘は米・大豆などの商人・搬送業者の出資で設立され伝統的経済システムに合わせて発展してきたこと、②中国の人々が外国銀行の複雑な手続を忌避して信用のみで貸付を受けられる銭荘を好んだこと、③銭荘の出資者が無限連帯責任を負っており信頼性が高かったこと、④外国銀行も不慣れな中国の商慣習の中で個々の顧客と取引するよりも銭荘に対して「折票Chop Loan」と呼ばれる短期信用貸付を行って銭荘に現地における金融業務を行わせる方法を取ったこと、などが挙げられる。




通貨制度改革


1890年、清は、日本と同じ「圓」を単位とした銀圓銀貨(銀元ともいう)「光緒元宝」を発行した。これは貿易用の計数貨幣であり、洋銀に合わせて銀圓銀貨1枚=銀O.724両/品位90.2%と定められていた。しかし、中国国内で貨幣価値の決定権を握っていたのは各地の銭荘による牙行であり、彼らは銀錠の両替業務の廃止にっながる統一的な計数貨幣の発行には強く反対していたため、通貨制度の改革は全く効果が上がらなかった。

しかし、中国が国際経済に組み込まれるにつれ、諸外国の景気変動の影響を受けるようになってゆき、銀荘の伝統的事業基盤が動揺し始めた。そして、辛亥革命や北伐などの大きな政治変動が起こるようになると、伝統的な銭荘の経営は揺らぎ始め、1910年のゴム恐慌でも打撃を受けた。更に、1929年の世界大恐慌において、アメリカがデフレ対策として「銀買上法」を制定し、国内の金保有の1/3まで政府による銀買上げを実施したために、銀価格が高騰し、中国から銀が大量に流出すると、多くの銭荘が破綻した。


1935年、「廃両改元」によって銀錠(馬蹄銀)が廃止され、銀価値とは切り離された名目計数貨幣=法幣「元」を導入することによって、中国は法的に銀本位制を廃止すると同時に、通貨制度をようやく国家の管理下におくことが出来た。これによって世界の国で銀本位制を採る国はほとんど無くなり、古来、世界の貨幣制度を担ってきた銀は、その歴史的役割を終えたのである。

また、宋代からおよそ1000年にわたり中国の貨幣制度を担ってきた銀荘は、1935年以降、中央の発券銀行から法幣の融資を受けることで通貨を確保せざるを得なくなり、破綻する銭荘が続出した。1949年、中華人民共和国が成立すると、銭荘は、政府や中国人民銀行の厳重な監督下に置かれ、①投機的活動の禁止、②生産部門投資の強要、③公私合営の徹底、が強制され、1953年頃には銭荘は公私合営銀行へ転換されて完全に消滅した。僅かに、中華人民共和国の支配下に入らなかった台湾や香港の中小零細金融機関の名称として存続したものがあるだけである。



日本の貨幣史 ~ 金と銀との間で揺れ動いた通貨エン


無文銀銭


667_無文銀銭_天智天皇近江京.jpg滋賀県崇福寺跡(668年創建)から出土した金・銀・銅の舎利容器(国宝)とともに「無文銀銭」と呼ばれる11枚のコインが出土無文銀銭は、中大兄皇子が天智天皇として即位した近江大津宮の時代(667年~672年)につかわれた銀貨であり、日本で最初につくられた貨幣(私鋳銭)である。これは銀地金としての重さで価値を表し流通する秤量貨幣の一種であり、径3cm、厚2mm、重さは、古代の重量単位1両の4分の1にあたる1分=6銖=10.55グラムにあわせてつくられたと見られるが、実際の重さは8グラム~10グラムであり、ばらつきがある。

銀の延べ板を裁断加工して作られており、表面に銀片を貼り付けて重さを揃える工夫がなされている他、中国の鋳造貨幣の特徴である四角い孔はなく小さな孔があるだけである。一般に文字(銭文)はないが、「高志」「伴」「大」と刻まれたものも出土している。

これまで、大和で7遺跡、近江で6遺跡、摂津・河内・山城・伊勢の各地域で1遺跡の合計17遺跡から約120枚出土している。貨幣としての価値、流通範囲、機能、富本銭と和同開弥との関係、などはまだ不明な点が多い。

『日本書紀』683年の記事に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」とあり、富本銭以前に流通していた無紋銀銭を指すのではないかと考える説、『日本書紀』顕宗天皇2年(486年)10月6日条にある「稲斜銀銭一文」との関連を指摘する見解もある。

「無紋銀銭」の発行主体は不明であるが、民間で大量の物資を交易する者が、物流の便宜を図るために、銀地金を秤量貨幣として使っていたことが、その成立の背景となっていることは間違いないだろう。「無紋銀銭」の出土状況からは、使用され始めたのは、近江大津宮への遷都と同じ頃である。667年3月19日、中大兄皇子(後の天智天皇)は、近江大津宮への遷都を行い、翌年668年1月に天智天皇として即位した。この遷都は、百済救済を大義名分に朝鮮派兵を行った中大兄皇子が、663年の白村江の戦いにおいて唐・新羅連合軍に惨敗し、飛鳥の地における政治的統制能力を失った結果、自らの政治的命脈を維持するために強行した亡命政権樹立に近かった。飛鳥の地に基盤を置く商人達は、遠い近江の地へ、大量の物資を運送するとともに、その資金決済を定期的に安全に行うために、銀地金をより使い易くした「無紋銀銭」を鋳造して使い始めたものと考えられる。




富本銭


683_富本銭.jpeg富本銭683年(天武天皇12年)、日本で最初の鋳造貨幣である「富本銭」がつくられた。『日本書紀』の683年(天武天皇12年)の記事に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」との記述があり、この「銅銭」が「富本銭」、「銀銭」が「無文銀銭」であると解釈されている。

直径24.44mm、中央に一辺約6mmの正方形の穴が開いた円形方孔であり、形式は、621年に発行された唐の開元通宝を模したものである。厚さ1.5mm前後、重さ4.25グラムから4.59グラムほど。材質は主に銅で、アンチモンを含む。これは、融解温度を下げ鋳造を易しくするとともに、完成品の強度を上げるために意図的に使用されたものと考えられる。微量の銀、ビスマスも含まれていた。

飛鳥京跡の飛鳥池工房遺跡からは、鋳造に使われた鋳型、溶銅、不良品やカスなどが発見され、溶銅の量から、9000枚以上が鋳造されたと推定され、本格的な鋳造がされていたことが明らかになった。アンチモンの割合などが初期の和同開珎とほぼ同じことから、和同開珎のモデルになったと考えられる。但し、藤原宮跡から地鎮具として出土した平瓶の中に詰められていた富本銭9枚のうち8枚は、従来のものと異なる書体で、うち4枚はには富本銭の特徴とされてきたアンチモンが含まれておらず、別の工房で鋳造されたと見られる。

表面には、縦に「富夲」と書かれ、横には7つの点が亀甲形に配置された七曜星という文様がある。「富本」は、唐代の百科事典『芸文類聚』が引く『東観漢記』の「富民之本在於食貨」(民を富ませる本は食貨に在り)という故事に由来し、七曜星は五行思想の陰陽と、木・火・土・金・水を表し、天地の象徴を示していると考えられる。

ところで、683年、「銀銭」の禁止令を出した天武天皇は、その僅か三日後に、「銀を用いること、止むことなかれ」と、事実上法令を撤回している(日本書紀)。この混乱ぶりは一体何を意味しているのだろうか?「銀銭」が「銅銭」に優先して用いられる状況は、後に「和同開珎」の発行の際、最初に「銀銭」が発行され、その三ヵ月後から「銅銭」が発行され始めた経緯とも符号している。これは、当時、交易において、「銀」が、秤量貨幣として広く使用されていた事情を反映しており、一方、朝廷のスタンスは、「銀銭」を廃止して「銅銭」を流通させようとする点で一貫している。「銀銭」を鋳造する場合、秤量貨幣であった銀地金の「実質価値」と手間賃とが「鋳造コスト」となるが、実際に流通する「額面価値」は、秤量貨幣であった銀地金の「実質価値」とほぼ等しくなってしまう。従って、国家として、貨幣を発行しても、得られる通貨発行益(=額面価値-鋳造コスト)は非常に小さい。一方、「銅銭」の場合、鋳造コストが極めて安く、国家が流通を強制しさえすれば、莫大な通貨発行益が得られる。だから、朝廷は、「銀銭」を「銅銭」で置き換え、できるなら「銀銭」と同じ「額面価値」で流通させようとした。無文銀銭は純度の高い銀で8.2g~11.2gあるが、これを銅の富本銭(4.25g~4.59g)と、「等価」で交換しようとしたわけである。しかし、等価交換の概念が発達している商人達は、「実質価値」を持たない「銅銭」を受け入れようとはしなかった。そして、商人と結託して経済実験を握る階層は、根無し草の天武天皇に表面上は従いつつ、天皇が無理難題を押し付けようとする時には、これを何の困難もなく撥ね付ける実力を有していたことが伺われる。

694年(持統天皇)、造幣局の役員を任命し、699年(文武天皇)に造幣局を設置したという記述が続日本書紀にあるが、これは最初の「富本銭」の発行から十年以上を経て、国家として、ようやく本格的な鋳造体制が整い始めた経緯を示していると考えられる。

大宝律令(701年)は、私鋳銭を禁じる条文があるが、その最高刑が徒(懲役)3年であり、708年の「和同開弥」発行後に出された死罪を最高刑とした私鋳銭禁止令と比べて軽すぎること、「私鋳銭鋳造を八虐に准じた重罪」とした後の明法家達の観念と一致していない、ことなどから貨幣としての流通を前提にしていなかったという指摘があるが、妄言と言えよう。



皇朝十二銭


708年(和銅元年)から963年(応和3年)にかけ、皇朝十二銭と称される12種類の銅銭が鋳造され、律令政府が定めた通貨単位である「1文」という貨幣価値として通用させようとした。未だ貨幣経済が浸透していない段階で貨幣鋳造を行った本当の理由は、平城京への遷都に必要となる莫大な経費を、銅地金本来の価値と貨幣価値との差額である「鋳造差益」で賄うことにあったとされており、唐の「開元通宝」を手本とした貨幣制度を整えることでこれを果たそうとした。

710_和同開珎.jpg和同開珎の銅銭。708年7月、銀銭の発効から2ヶ月遅れて鋳造され始め、8月に発行された。710_和同開珎_銀銭.jpg和同開珎の銀銭。708年5月、銅線に先立って発行された。 708年(和銅元年)5月、「和同開珎」の銀銭が、最初に発行された。直径24mm前後、中央に一辺約7mmの正方形の穴が開いている円形方孔であり、表面に時計回りに和同開珎と表記され、裏は無紋である。形式は、621年に発行された唐の開元通宝を模したもので、書体も同じである。現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡から、和銅(にきあかがね、純度が高く精錬を必要としない自然銅)が産出した事を記念して、「和銅」に改元するとともに、和同開珎が作られたとされる。

しかし、実際には、民間で流通していた秤量貨幣としての無紋銀銭を名目貨幣である銅銭で置き換え銅銭の大量発行によって平城京の造営費用の支払いに充てること(つまり貨幣発行益で造営費用を賄うこと)に本来の目的があった。

708年5月銀銭が発行され、7月銅銭の鋳造が始まって8月発行されたことが続日本紀に記されている。和同開珎銀銭は、実測すると、民間で流通していた「無文銀銭(銀地金の秤量貨幣の代替物)」の重量(8.2g~11.2g)に対し、三分の一から二分の一の重さしかなかった。朝廷は、銀地金としての重量を減らし、鋳造コストを半分以下に引き下げた和同開珎銀銭を、無紋銀銭と、同じ「額面価値」を持つものとして、流通させようとしたのである。朝廷が得る貨幣発行益を増幅することが目的である。しかし、朝廷の真の狙いは、もっと大胆であった。最初に発行した和同開珎銀銭全く同じ大きさ・形をした和同開珎銅銭を発行し、これを同じ「額面価値」を持つものとして流通させようとしたのである。つまり、①秤量貨幣に近い無紋銀銭和同開珎銀銭で置き換え、②和同開珎銀銭和同開珎銅銭で置き換えることで、秤量貨幣を一気に名目貨幣へと置き換えようとしたのである。「実質価値」で見ると、「無紋銀銭=和同開珎銀銭×2~3枚和同開珎銅銭×およそ75枚」であったが、「額面価値」としては全て等価つまり「無紋銀銭=和同開珎銀銭=和同開珎銅銭」として流通させようとしたわけで、貨幣発行権を持つ朝廷は、和同開珎銅銭を一枚発行し、これを支出の決済に充てることで、無紋銀銭1枚分の実質的利益(鋳造コストのおよそ75倍の利益)を得ることが出来た。更に、銀よりも、銅の供給量の方が圧倒的に多かったため、貨幣発行枚数分だけ、貨幣発行益を増大させることができた。

和同開珎発行の翌年709年には、銀銭の私鋳禁止令が出され、私鋳銭鋳造を八虐に准じて死罪とし、民間で使われていた秤量貨幣としての無紋銀銭の鋳造を禁止し、和同開珎(銀銭/銅銭)の流通を強制しようとしている。しかし、民間の商人は、「実質価値」の低い銅銭の受取りを拒み続けたため、翌709年8月、朝廷は銀銭の発行を僅か一年余りで取りやめてしまう。これによって、銅銭の流通を強制しようとしたのである。和同開珎には、厚手で稚拙な「古和同」と、薄手で精密な「新和同」があり、新和同は銅銭しか見つかっていないことから、銀銭廃止後に発行されたと考えられている。

711年(和銅4年)5月「銅銭1文」=「穀6升」(=「精米約2kg」=「新成人1日分の労働賃金」)の「交換価値」を法令で定めた。この交換比率は、「銀銭1文」=「銅銭1文」×5枚と定めたことに相当する(実質的な貨幣の「額面価値」の切り下げ)。また、銅銭一文に含まれる銅地金の「実質価値」=「銅銭一文」×4.5枚~5枚、であったため、仏像など銅製品を鋳潰して私鋳銭をつくると5倍の利益が得られるため、銅銭の贋金作りが横行する結果を招いた。

711年10月には、銅銭の流通を促すために、①役人に対する主要な給与の一分を銭貨で支給する。②一定額の銭貨を貯めて国家に差し出すと額に応じた位階を与える(蓄銭叙位令)。③私鋳銅銭の厳禁、という法令を出している。蓄銭叙位令では、従六位以下のものが十貫(1万枚)以上蓄銭した場合には位を1階、二十貫以上の場合には2階進めるとしたが、銭の流通ではなく退蔵・死蔵を招いたため、800年(延暦19年)に廃止している。私鋳銭禁止令では、首謀者は死罪、従犯者は没官、家族は流罪という厳罰を定めた。しかし、私鋳銅銭の製造は後を絶たず、それが大量に出回ることで、貨幣価値が下落していった。

712年12月には、税(調庸)の布と銅銭の交換基準を定め、721年(養老5年)頃には、税(調)を銅銭で収める地域を拡大している。

721年(養老5年)722年(養老6年)には、銭貨の法定価値「額面価値」を、市場で取引される「実勢価値」に合わせて切り下げている。721年には、「銀銭(4グラム)=銅銭(3.4グラム)×25枚(85グラム)」かつ「銀地金一両(42グラム)=銅銭×100枚(340グラム)」と定め、銀:銅の比価は、銀銭で「21.3:1」、銀地金で「8.1:1」で、銀貨の方を2.6倍も高く評価していた。翌年722年には、銅銭を銀銭に連動させたにも拘らず、銅銭の「実質価値」が更に大幅に下落してしまい、「銀地金一両銅銭×200枚(680グラム)」と「額面価値」が半分へ切り下げられた(銀銭・銅銭の交換率については触れられていない)。この時点でも、和同開珎銅銭は、まだ、唐の銅銭開元通宝5倍という高値に公定された名目貨幣だったが、国内では、ようやく流通し始めた。

名目貨幣である銅銭が、流通し始めると、銀が商品として、銅銭による価格表示で売買されようになった。銀が地金としての「実質価値」によって売買され始めると、価値の安定している「銀」は、売買に使用されずに退蔵され、銅銭ばかりが流通するようになった。

730年~737年頃、銭貨の増産を示す記事が現れ、和同開珎の増産(通貨供給量の増大)により、貨幣価値は、一層急送に低下していったことがわかる。

740年聖武天皇(在位:724年(神亀元年)2月4日~749年(天平勝宝元年)7月2日)は、平城京を出て、6年間、恭仁京紫香楽宮難波京と彷徨を続け、再び平城京に戻ったが、その間、宮廷や役所の移転費用が多額に上った。更に、聖武天皇は、東大寺の大仏の建設にとりかかり、建設費支払いのために和同開珎が増産され激しいインフレが生じている。更に、東大寺を筆頭に、諸国に国分寺・国分尼寺の建設を行い、数万人の僧・尼僧を出家させ、これら全てを国費で行ったため、膨張した財政支出で経済は極端に疲弊した。内乱や疫病も流行し、「租庸調」の徴税も進まず、結局、貨幣増産による貨幣発行益に頼るしか財政再建の道はなくなってしまう。


760_開基勝宝.jpg760年(天平宝字4年)、太政大臣・恵美押勝の命により、貨幣価値をほとんど失った和同開珎に対するデノミネーション(=貨幣発行益の増幅政策)が実施された。『続日本紀』天平宝字4年(760年)3月16日の条には、私鋳銭が多いため萬年通賓(銅銭)、太平元寶(銀銭)、開基勝寶(金銭)を新たに鋳造したと記されている。

そのやり口は、まず、開基勝寶という金銭、太平元寶という銀銭を極僅か発行することによって、当時、高額決済で主流を占めていた秤量貨幣としての銀地金に対する「実質価値」と「額面価値」の基準を定めた上で、萬年通賓という銅銭を名目貨幣として鋳造し、金貨・銀貨との交換比率を法律で定めることにより、いわゆる金銀複本位制を導入し、貨幣価値の修復を図るとともに、莫大な「通貨発行益」を独占しようとしたのである。この時、「貨幣発行権」は、同じ年の1月に人臣として初めて太政大臣に任官した恵美押勝が自ら独占的に確保しており、恵美押勝は、朝廷からも自立した経済力の源泉を確保する意図を持っていたと考えられる。この新しい貨幣体系に、ほとんど貨幣価値を失っていた「和同開珎」を、十分の一の額面価値を持つ貨幣として結びつけることによって、デノミネーションが実施された。その交換比率は、開基勝寶太平元寶(銀銭)×10枚=萬年通賓(銅貨)×100枚=和同開珎(銅銭)×1000枚」と定められた。

しかし、銅銭である萬年通賓和同開珎は、実質的に形も重量もほぼ同じであり、銅地金としての「実質価値」がほとんど変わらないにも関わらず、「額面価値」で10倍も異なる価値を持つ貨幣として流通させようとしたため、大きな混乱が生じたとされる。本位制度が機能するためには、金貨・銀貨との交換が国家によって保証されなければならないが、現存する金銭開基勝宝は、東京国立博物館等に所蔵されている奈良・西大寺塔址から出土した1枚と、西大寺町出土の31枚の、合計32枚にすぎない。また、銀貨太平元宝については、発掘されたものは無く、唐招提寺で宝蔵から発見されたと伝わる2品と他に1品が現存したとされるが、現在はその2品の拓本が伝わるのみで、現品は行方不明になっている。いずれにしても、金貨・銀貨ともに、象徴的につくられはしたが、当初から実際に銅銭との交換を保証した上で流通させる意図は全く無く、デノミネーションを権威づけるための舞台装置に過ぎなかったと考えられる。恵美押勝の狙いは、あくまで萬年通賓和同開珎の10倍の「額面価値」で発行・流通させ、自ら莫大な貨幣発行益を独占することにあり、上記の舞台装置でこれを強行したのであるから、混乱が生じたのは当然と言える。

ちなみに、このデノミネーションで貨幣発行権を独占した太政大臣・恵美押勝とは、孝謙太上天皇および道鏡と対立し、淳仁天皇とともに軍事力をもってクーデターによる朝廷権力の奪取を試みて失敗した藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)のことである。実は、このデノミネーションは、実施された同じ年の一月に、人臣として史上初めて大師(太政大臣)に登りつめた恵美押勝による権力誇示の一大セレモニーであったとも言える。クーデター失敗により、その一族が皆殺しにされたのは、その四年後、764年(天平宝字8年)9月のことであった(藤原仲麻呂の乱)。

藤原仲麻呂は、叔母の藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后の信任を得て次第に台頭し、未婚の女帝・孝謙天皇が即位すると、孝謙と皇太后となった光明の権威を背景に事実上の最高権力者となった。757年(天平勝宝9年)3月、皇太子だった道祖王を廃位に追い込み、翌4月、ひそかに孝謙天皇に勧めて、自分の私邸に居住させていた大炊王(息子真従の未亡人粟田諸姉と結婚させていた)を皇太子に立、大炊王が淳仁天皇として即位すると、大保(右大臣)となり、恵美押勝藤原恵美朝臣押勝)の姓名を与えられる。更に、760年(天平宝字4年)1月、人臣として史上初めて大師(太政大臣)に登りつめ、押勝は子弟や縁戚を次々に昇進させ要職に就け、勢力を扶植していった。同じ年760年3月に、「和同開珎」のデノミネーションを敢行し、史上初の金貨を発行し、その「貨幣発行権」を独占したのは、正に栄華の極みを天下に知らしめるセレモニーであった。しかし、その同じ年760年6月には、光明皇后が死去し、後ろ盾を失った権勢はかげりを見せ始める。孝謙太上天皇は、自分の病気を祈禱によって癒した僧・道鏡を信任しはじめ、762年(天平宝字6年)6月には、孝謙太上天皇は出家して尼になるとともに、「(淳仁天皇は恒例の祭祀などの小事を行え。国家の大事と賞罰は自分が行う」と宣言する。763年(天平宝字7歳)9月には、道鏡を少僧都に任じ、孝謙は道鏡を寵愛する一方、淳仁天皇恵美押勝を抑圧するようになった。764年(天平宝字8年)9月、焦燥を深めた恵美押勝は、都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使に任じられたのを機に、都に兵を集め、孝謙太上天皇から権力を奪取しようとするのである。しかし、内通者の密告によって孝謙太上天皇の知るところとなり、手勢の兵とともに近江へ逃げたが、琵琶湖で切り殺された。恵美押勝の一家も皆殺しにされ、淳仁天皇は廃位されて淡路国に流され、代わって孝謙太上天皇称徳天皇として重祚し、道鏡太政大臣禅師ついで法王となって、独裁政権が形成されたのである。


760_万年通宝_乾元大宝.jpg765年(天平神護元年)、藤原仲麻呂の乱の翌年早々、孝謙太上天皇(称徳天皇)は、謀反者・恵美押勝によってつくられた「萬年通賓」を廃止し、同じ額面価値を持つ「神功開寳」を発行している。

779年(宝亀10年)には、萬年通賓」=「神功開寳」=「和同開珎」×10枚、とする「額面価値」では貨幣が全く流通しなくなった実情を追認する形で、和同開珎」も同一の「額面価値」を持つとし、萬年通賓」=「神功開寳」=「和同開珎と定められ、「額面価値」を十分の一に引き下げる措置がとられている。

796年に発行された「隆平永宝」以後、銭貨は急速に小型化し、品位も悪化してゆくが、発行の度毎に、旧通貨の10倍の「額面価値」があるとして発行される慣習が出来上がる。和同開珎のデノミをおこなった恵美押勝は、通貨の仕組みを理解した上で謀略を仕掛けたが、その後は、前例を踏襲するだけで、朝廷の国家運営能力が極度に低下してゆくことが顕著に現れている。

958年(天徳2年)、皇朝十二銭の最後の貨幣となる「乾元大宝」が発行される。「乾元大宝」は、量目(重量)2.5g程度と従来の銅銭のと比較して最も小さく、鉛75%以上と品位が極端に低い銅貨であり、鋳造技術も低くて銭文の文字が読めないものも多い。「乾元大宝1枚」=旧銭×10枚、という「額面価値」が適用されたが、品位の低さなどから敬遠されてほとんど流通しなかった。当時の平安貴族は、貨幣を流通させたいと願い、『日本紀略』によれば、発行した同じ年の天徳2年4月8日に伊勢神宮以下11社に新造の乾元大宝を奉納して流通を祈願させている。血生臭い政争の果てに、貨幣流通の仕組みを理解した上で対策を講じられる人材は、最早、朝廷にはいなくなっていたようである。963年(応和3年)に、朝廷発行の最後の貨幣として鋳造を中止されている。以後、江戸時代まで、600年以上にわたって、日本では貨幣が鋳造されなくなってしまう。

貨幣の「交換価値」が急落し、銅地金としての「実質価値」に近づき、更にこれを下回ると、溶融されて銅地金として流通することになる。こうした「破銭」に対し、984年(永観2年)、「禁破銭令」が出されている。禁令は社寺などに出されており、朝廷から咎められないように、銅灯篭など「国家安泰を祈願するため」の仏具に事寄せて溶解したものと考えられる。結果として、皇朝銭の現存枚数は、発行記録と比較して、きわめて少ないものとなっており、特に後期のものは低品質の影響で錆びが酷く、刻字が読めるものはごく稀で、逆に現在の古銭市場で高値で取引されている。



当時の日本は「米」や「布(絹)」など物品貨幣が一般的であり、社会経済水準が貨幣を必ずしも必要としていなかった。そのため、皇朝十二銭は、畿内とその周辺国以外にはあまり普及しなかったと考えられる。但し、地方では、富と権力を象徴する宝物として使われ、和同開珎の出土地は全国各地に及び、渤海の遺跡など海外でも発見されている。また、銅の生産量が絶対的に少なく、実物貨幣に代わるだけの銅銭の供給はそもそも困難だった。「延喜通宝」や「乾元大宝」は、銅銭とされながら、その「品位(含有する銅の割合)」は、非常に低くなり、鉛銭に近づいている。もともと、銅銭として、「1文」=「米2kg」=「新成人1日分の労働賃金」の「交換価値」を持つものとして発行されながら、9世紀中頃には、銅銭「一文」で買える米の量は、100分の1から200分の1にまで激減していた。

一方、金銀は、中世に至るまで、秤量貨幣としてのみ通用し、砂金などの形で使用されることになる。金銀の産地が偏在していたことから、銀は西日本中心に使用され、金は東日本中心に使用された(関東以東の金鉱山としては、11世紀半ばに発見され平泉黄金文化を支えた宮城県の大谷金山、戦国時代に発見された山梨県の黒川金山、17世紀初からの佐渡金山などがある)。




皇朝十二銭の発行という国家的事業が失敗し、朝廷の力の低下を招いた原因を整理すると、以下のようになる。

  • 都造営の財政支出を賄うために、通貨発行益の極大化を目指し、貨幣の「額面価値」と「実質価値」の差を大きくし過ぎた。
  • 銅不足と財政難から品位を引き下げる「改鋳」を繰り返した。
  • 「額面価値」のみを引き上げるデノミネーションを繰り返した。
  • 貨幣が流通しなくなる仕組みが理解できず、適切な対応を行わず、同じ過ちを繰り返し続けた。
  • 貨幣の信用が、国家の信用につながることを理解できなかった。

信用を失った銭は、物資流通と交易の現場から忌避されるようになり、11世紀初頭をもって貨幣使用の記録は全く途絶え、「」や「」などの物品貨幣経済へと逆戻りしてしまう。そして、宋銭が大量に流入する12世紀後半まで200年にわたり、日本国内で銭はほとんど流通しなくなった。更に、銅銭の公鋳が再開されるのは、皇朝十二銭の製造中止から600年以上後の1608年(慶長13年)の「慶長通宝」あるいは1627年(寛永4年)の「寛永通宝」を待つこととなる。





米や絹など物品貨幣が流通した平安時代


皇朝銭の鋳造停止以後、国が貨幣を発行しない時代が長く続いたが、10世紀末の平安京への遷都から約200年間は、通貨として「」や「」などの「物品貨幣」が利用された。

この貨幣経済からの離脱は、日本の国家運営能力を地に貶めた事件ではあるが、一方で、平安時代に成立した日本人独特の感性 -ものに対する繊細な感覚- の直接的源泉になっている気もする。貨幣は、物事が持つ多種多様な価値を、交換価値という単一の尺度でのっぺりと塗り潰すという働きを持っているが、平安時代の人々は、国家権力が差し出すそののっぺりとした肌触りの裏に、拭い難い欺瞞が潜んでいることを思い知った上で、貨幣を捨てて、一見不便な、ものの交換という世界へと退却した。しかし、交換における「等価」という観念を植え付けられた人間は、単純な物々交換に戻ることは出来ない。ものの価値、品質や意匠を見極めた上で、等価性に対する研ぎ澄まされた感覚を持つようになる。それは、既に、銭の使用に際しての選銭という行為にも現れてくる。等価性を確保し損をしないためには、国家が差し出すのっぺりとした尺度ではなく、感性的鋭敏さに基づく個人の等価感覚が要求されるようになるのである。手でつくるものに同じものは二つとない。その微妙な差異を見極める感性が、平安時代の精神を形づくっているように思えるのである。


平安時代末期、武士が勢力を持ち始めた時代、1150年に土地売買に150年ぶりに銭が使われた記録が登場する。




渡来銭による商品経済の浸透


朝廷が分裂して争われた保元の乱(1156年)に乗じ、勢力を伸ばした平氏一門は、全国に500余りの荘園を保有し、日宋貿易を推進して莫大な財貨を手にして興隆を極めた。奈良時代から大宰府監督の下で鴻臚館貿易が行われていたが、平安時代になると衰微し、日中間の正式の外交貿易は絶えて一般人の渡航も禁止されて、博多や越前敦賀へ来航する宋の商人による私貿易が行われていた。越前守でもあった平忠盛は、日宋貿易に着目し、後院領である肥前国神崎荘を知行して独自に交易を行い、舶来品を院に進呈して近臣として認められる。

この時、平氏は、勢力基盤であった伊勢で産出する「銀」などを輸出した。

1158年、大宰大弐となった平清盛は、日本で最初の人工港を博多に築き、寺社勢力を排除して瀬戸内海航路を掌握し、航路整備や入港管理を行って、宋船による厳島参詣を行うようになった。1173年には、摂津国福原の外港にあたる大輪田泊(神戸港)を拡張し、正式に国交を開いて貿易振興策を行った。

中国からは宋銭のほか、陶磁器絹織物仏教経典など書籍文具香料薬品絵画などの美術品などが輸入され、日本からは、硫黄などの鉱物、周防など西国の木材日本刀などの工芸品、が輸出された。

日宋貿易により、宋銭が大量に流入すると物価が高騰し、物品貨幣として流通していた「米」「布」の価値が下落し、貴族の経済力が低下し始めた。1179年には『百練抄』治承三年六月の条に「近日。天下上下病悩。號之銭病」と記された「銭の病」といわれる貨幣保有熱が民衆の間に広がり始めた。同じ1179年、貴族の経済力低下を食い止めようと、朝廷が宋銭の使用禁止令を出している(1193年にも再度禁止令)。しかし、効力はなく、貨幣需要が高まり、中国等との貿易を通じて流入してきた多種類の貨幣(渡来銭)が、そのまま日本で貨幣として用いられるようになった。

平家滅亡によって日中間の正式な国交はなくなったが、鎌倉幕府は民間貿易を奨励し、博多を鎮西奉行が統治するようになると幕府からの御分唐船も派遣された。

禅宗は、教えとしては平安時代には既に伝わっていたが、鎌倉時代に入って入宋僧による招来や、貿易船に便乗して渡来した民間の中国人来日僧によって武士階級に急速に普及した。栄西は、天台山万年寺から『天台章疎』60巻を将来して臨済禅を伝えるとともに、禅宗寺院で行われていた抹茶を日本に伝え、1214年に源実朝に自ら著述した「茶徳を誉むる所の書-喫茶養生記」を献上している。

1226年、鎌倉幕府が納税に際し「准布」に代わって「銅銭」を使用するように令を出し、1230年に朝廷は「米1石=銭1貫」という交換比率を定めた「沽価法」を定めている。1252年に始まった鎌倉大仏の造営では、素材には渡来銭が使われたとされている(121トン=3.2万貫)。更に、貨幣経済の浸透とともに、融資・利子という融機能が必要となったために、1262年に鎌倉幕府が「沽値法」「利子法」を定め、米など収穫物で納めていた年貢を銭で納めるようになり (代銭納化)、民衆の間では大量の銭を整などに入れて土中に埋める風習が始まった。商品経済が発達し、村落の境界では「定期市」が増加し、貨幣経済の中で借金を負って没落したものを救済するために、1297年には「永仁の徳政令」が発せられている。




銭貴と明銭の流通


やがて、1300年~1330年頃、室町時代になると、渡来銭だけでは不足し、銭不足で銭価が高騰する「銭貴」が発生し、鐚銭(ぴたせん)が大量に造られ始める。更に、高度な金融機能が求められるようになり、割符・無尽銭などが土倉などによって営まれ発達した。一方、1390年代に入ると、渡来銭を強奪しようとする倭寇が出没するようになり、渡来銭が再び大量に流入するようになる。

1404年、明との関係で独占的な地位を確保しようとする室町幕府三代将軍・足利義満は、勘合貿易を始め、「明銭」の輸入を独占しようとした。当初は「宋銭」よりも低く評価されて嫌われたため、1500年から1513年まで毎年のように室町幕府は「撰銭令」を出し、「明銭」の受領を義務付けた。1542年、京の興福寺が「宋銭」と「明銭」を対等に評価するようになって以降、明の永楽帝の時代(1408年)に発行された「永楽通宝」の評価が高まり、16世紀後半頃から各種流通貨幣の価値を計る基準となった。



戦国大名による改造鐚銭


応仁の乱(1467~1477年)によって室町幕府が機能しなくなると、堺を本拠とする管領家の細川氏や、乱で兵庫を得た大内氏、博多や堺などの有力商人が、日明貿易を経営するようになった。1523年の寧波の乱の結果、大内氏が権益を握り、1536年に大内義隆が遣明船派遣を再開している。1557年、大内義長が毛利元就に討たれて滅ぶと、明との貿易再開の見込みが絶たれ、倭寇(後期倭寇)による密貿易が中心となった。

1566年、倭寇が制圧され、明からの渡来銭の流入がほとんど止まると、銭不足に対応するために、日本での銭(加刀鐚銭、改造鐚銭)の製造が盛んになり、島津氏が大隈の加治木で「洪武通宝」などの鋳写し鐚銭を鋳造している。

15~16世紀にかけて、商品経済の中心地であった堺や博多では、中国銭を模した銅銭(模鋳銭)が鋳造されていたが、特に堺では、摸鋳銭だけでなく文字のない無文銭「堺銭」が大量に造られた。



甲州金-日本初の体系的貨幣制度


1567年、武田信玄の支配する甲斐国で、日本における初の体系的貨幣制度の金本位貨幣となった「甲州金」が鋳造された。金山経営は、新田開発とともに戦国大名の軍事行動の基盤となる富国強兵政策であり、武田信玄時代の対外的軍事行動を支えた一方、金鉱の衰えが勝頼時代の衰退をもたらしたとされる。甲斐の金は、黒川金山(現甲州市)、湯之奥金山(西八代郡)、中山金山、御座石金山(北巨摩郡)、保金山(南巨摩郡)など本国の金山の他、金鶏金山(諏訪郡)、富士金山や安倍金山(駿河)など直轄領拡大で接収された他国の金山でも産出された。甲斐の金山衆は、棟別役や諸役の免除など保護を受け、金鉱採掘のほか農業や商業を営み、採掘技術を活かし合戦における坑道掘りなどの軍役や普請事業にも従事していた集団であるが、武田氏滅亡後、徳川家康により保護され、徳川幕府のために働くようになった。採掘された金は灰吹法により碁石形に精錬され、後には形態も多様化し産地を示すようになった。金銀は、戦費の補填のほか、中央権門や有力寺社、他国への贈答としても使用された。




銀座・金座


戦国時代より現れた両替商兼銀細工師である銀屋(かねや)が、各地の銀山で産出される灰吹銀に、品位の保証としての極印打ち、極印銀を鋳造するようになり、こうした業者が集まり銀座が設けられた。例えば加賀藩では銀細工師集団である金沢銀座があり江戸時代の初期にかけて領国貨幣である極印銀を鋳造した。

安土桃山時代頃になると、渡来銭に替わり、各地の銀山で産出される灰吹銀が秤量貨幣として流通するようになり、従来の渡来銭は補助貨幣として流通するようになっていった。しかし、領国貨幣は、品位が一定でないという欠点があり、遠隔地取引を行う商人達によって、商業の発達した関西に持ち込まれた極印灰吹銀は、銀取引を業とする銀商や豪商らの手によって吹き直されて使用されるようになった。とくに泉州・堺の銀商によって組織された「南鐐座」は、関西における代表的銀吹人で、ここで諸国の銀を集めて鋳造した丁銀は、関西諸都市の中心的な銀貨として信用され、秤量貨幣として銀切遣いの習慣をも生むにいたり、ついには豊臣氏の貨幣にも採用されることとなった。南鐐座は、桑原左兵衛、長尾小左衛門、村田久左衛門、郡司彦兵衛、長谷又兵衛によって組織され、灰吹銀を各地から集め、を加えて極印を押して業を営んでいた。

豊臣秀吉は、銀貨の統一に向け、堺や京都の銀吹屋20人を集め、大坂・堺の南鐐座に常是座(じょうぜざ)の名を与えた。これが政府が設立する銀座の始まりとなった。1592年(文禄元年)、豊臣秀吉は、ここで御公用銀(ごくようぎん)を鋳造させている。また、1588年、豊臣秀吉が、「天正大判」という金貨を発行している。これは表面積が世界最大級の金貨であり、2004年'10月に1000トロイオンスのウイーン金貨が発売されるまでは世界一だった。しかし、ともに流通貨幣ではなく、贈答を主な目的とするものであった。

戦国時代、灰吹法によって特に銀の生産性が向上したため、金銀比価は、天正年間に「1:10」、慶長年間には「1:12」となり、銀安がすすんだ。これにより、当時「1:9」だった中国へ銀を輸出し、金に代えて、持ち帰ることが有利となり、銀流出/金流入の構造が戦国時代末期から江戸時代初期にかけて生じた。



徳川幕府の貨幣政策


1601年(慶長6年)、日本最大の金銀山である佐渡金山が発見され、徳川家康は伏見城にて大久保長安に佐渡金山の支配を命じた。慶長から寛永年間にかけての最盛期には金が1年間に400kg、銀が40トン以上採掘され、江戸幕府による慶長金銀の材料を供給する重要な鉱山であった。それ以降、平成元年まで388年間採掘が続けられ、1500万トンの鉱石から金78トン、銀2300トンが産出されている。

徳川家康は、「金座」、「銀座」を設けて、金銀の鉱山・精製事業を直轄化した。

1595年(文禄4年)、徳川家康は、京都の金匠後藤庄三郎光次に命じ、江戸で小判を鋳造する金座を設立した。後藤家は御金改役として本石町の役宅において金貨の鑑定と検印のみを行い、実際の鋳造は小判師などと呼ばれる職人達が行った。小判師達は小判座と総称され、後藤宗家が居住していた本石町の金座役宅の周辺に施設を構えてその支配下に置かれていた。御金改役を世襲した後藤宗家を小判座の元締という意味を込めて特に大判座とも呼んだ。

小判は以下のプロセスで製造され勘定所に収められた。①後藤手代が立会い監視の下に地金を精錬。金山より買い入れた山出金、古金貨、輸入印子金などを鎔解し、食塩および硫黄を加え、含まれる銀と反応させ精錬し、一定の品位の焼金とした。②試金石を用いて手本金と比較して品位改め。③焼金および花降銀(純銀)を規定品位になるよう秤量し坩堝で鎔融して竿金とする。④金座人がこの地金を受け取り一定の目方に切断され小判型に打ち延ばす。⑤表面に鏨目を打ち、計量検査が行った後、棟梁および座人の験極印を打つ。⑥後藤手代が検査し、扇枠の桐極印、額面などの極印を打つ、⑦金座人が小判に食塩、焔硝、丹礬、緑礬、薫陸などの薬剤を塗り火で焙って色揚げ(金色整え)、⑧最終検査に合格した小判を百両単位で包封金とし勘定所に上納。

1601年5月(慶長6年)、徳川家康は、京都伏見の伏見城下に貨幣鋳造所を設立し、堺の両替商だった湯浅作兵衛を極印方に任じ、徳川家より大黒常是という姓名を与えた。大黒常是および銀座人らは、町屋敷四町を拝領して両替町と称し、銀座会所と座人の家宅と常是吹所が建てられた。銀座は、諸国の銀山で産出された灰吹銀を、公鋳の丁銀で買い入れ、買い入れた銀を所定の品位で吹き直し、鋳造した丁銀に「常是」の略号を刻印した上で包装したため、この銀貨の包みを常是包と呼び、この両替システムを南鐐替と称した。

1608年(慶長13年)、江戸幕府は、「金1両=銀50匁=永楽銭1貫文=鏑銭4貫文」と交換比率を定めた。同年、伏見銀座はを京両替町(室町と烏丸の中、二条から三条まで拝領して設立され両替町と呼ばれた)へ移転し、1612年(慶長17年)には、駿河銀座を江戸新両替町(現在の銀座)へ移した。

1636年には「寛永通宝」を発行して、幕府として統一した貨幣制度を敷き、これを以って、日本における近世の貨幣制度の成立とみなす。その後、1640年代を通じて、幕府は、渡来銭の回収をすすめるとともに、1643年には私鋳銭を禁止し、14世紀から行われていた民間での銭の鋳造を禁止して貨幣鋳造権(=貨幣鋳造益)を独占する体制を確立する。更に、1670年には、新銭(寛永通宝)と古銭(その他の銭)を混合して使うことを禁止し、1682年には「寛永通宝」以外の銅銭の使用を禁止し、渡来銭の役割は完全に終わった。

江戸幕府による金本位制度である三貨制度(金貨=小判、銀貨二丁銀・分朱銀、銅貨二文銭が無制限通用を認められていた)は幕末期まで継続された。しかし、一方で、西日本中心に使われた銀は、秤量貨幣として使用され続け、江戸時代末期になって漸く 「定位銀貨」が受け入れられるようになる。



改鋳


江戸中期になると、幕府財政難によって金貨の改鋳が行われ、事実上小判の補助通貨となった「一分銀」の発行によって小判と一分銀の貨幣材質上の金銀比価が銀高へ変動し、幕末は1859年(安政6年)には、「1:4.65」という世界水準「1:15.5」とかけ離れた金銀比価となっていた(小判と丁銀の含有率に基づく比価は「1:10」前後を維持)。既に金本位制への移行を終えていた西欧列強は、日本の金銀比価を利用して、大量の金を日本から奪い去っていった。

江戸幕府は、当初、異国船打払令を出すなど強硬な態度を採っていたが、アヘン戦争で清帝国が敗戦すると恐れをなし、1842年(天保13年)には薪水給与令を出すなど欧米列強を懐柔する政策へと態度を軟化させ、更に開国・通商路線へと政策転換をおこなった。これが、尊王攘夷運動に火をつけたが、薩英戦争や下関戦争を経ることで、国内統一・体制改革(近代化)を優先して外国貿易によって富国強兵を図り、欧米に対抗できる力をつけるべきだとする大攘夷論が台頭し、王政復古から戊辰戦争を経て明治維新を引き起こし、薩摩・長州両藩出身の官僚を中心とする急進的近代化政策が推進されてゆく。



金本位貨幣・円の誕生


1871年(明治4年)、明治新政府は、「新貨条例」を制定し、通貨単位を「両」から「円」に改めると同時に従来の4進法(両・分・朱)を10進法(円・銭・厘)へ切り替え、20円・10円・5円・2円・1円の計5種類の金貨を発行して本位貨幣とする金本位制を導入した(この他に、補助貨幣として50銭銀貨、10銭銀貨などの貨幣を造った)。当時明治政府が鋳造し流通していた明治二分判(量目3g 金純分22.3%)2枚(=1両)の純金および純銀含有量の合計の実質価値に近似でもあり、新旧物価が1両=1円として連結し、物価体系の移行に難が少ないとして採用された。そして、海外との平価は、1円=純金1.5グラム=1両=1米ドルと定めた。

明治新政府は当初、徳川幕府時代の三貨制度(金貨二小判、銀貨二丁銀・分朱銀、銅貨二文銭が無制限通用を認められていた)を引き継いで、幕藩時代の金銀銭貨や藩札をそのまま通用させる一方、通貨不足解消のために自ら太政官札や民部省札などを発行し、更に民間の為替会社にも紙幣を発行させていた。しかし、各種通貨間の交換比率は非常に複雑になり、また偽造金貨・紙幣が横行し、通貨制度は混乱をきわめていたのである。

金本位制を採用したのは、見習うべき欧米各国が「金本位制」に移行若しくは移行を予定していたことによる。但し、東洋では、中国が秤量貨幣として銀を使っていたこともあり、貿易決済通貨として銀貨(スペイン・ドル銀貨、メキシコ・ドル銀貨)が使用されており、金貨だけでなく銀貨も必要であった。そのため、貿易専用として1円銀貨が発行されたのである。東洋地域で銀貨が流通した裏には、これまで銀本位制を採っていた欧米諸国が、金本位制を導入することで余分になった銀を東洋地域に流すことにより、銀価格の低落防止と金銀比価の安定を図ろうとしていたこともある。

日本は、欧米との取引には「金」を使用し、東洋での取引には「銀」を使用するという複雑な金銀複本位制を運営することになったが、結果として、ペリー来航以後に小判(金貨)が欧米へ大量に流出し、洋銀が流入し、日本全体では「金少銀多」状態に陥った。そして、グレシャムの法則の通り、「金」は国内で流通しなくなり、国内での決済・流通には「銀」だけが使用されるようになった。しかし、東洋での貿易決済専用として発行された1円銀貨は、支払いに使用されるやいなや、ほとんど鋳潰されていた。明治政府は、東洋で流通していたメキシコ・ドル銀貨の駆逐を目指し、銀の純度を上げて1円銀貨を発行したが、メキシコ・ドル銀貨の信用力が高い一方、利に聡い清国商人は、純度の高い1円銀貨を地金として利用した方が儲かることから、鋳潰して銀塊として扱ったのである(アメリカの貿易銀も同様の運命を辿った)。



金銀複本位制へ移行


1879年(明治11年)、明治政府は、「1円銀貨」を本位貨幣とすることに方針を変更し、貿易用であった1円銀貨の内地流通を認めると共に無制限通用を認め、金銀複本位制へと転換せざるを得なくなった。1886年(明治18年)から免換紙幣が発行されたが、この紙幣は「金」との免換ではなく、「銀」との梵換を約束するものであった。「金」と梵換したくても「金」が無いのでやむを得ず採用した制度であるが、これ以降、日本は実質的銀本位制度になったといえる。日本における近代紙幣は、1872年に発行された政府紙幣「明治通宝」に始まる。同じ1872年、「国立銀行条例」を制定し、全国に153行の国立銀行を設立し、一定の発行条件のもと紙幣の発行権を付与し、最初の国立銀行紙幣(印刷はアメリカに依頼)が発行された。この新紙幣制度の確立によって、明治政府は、江戸時代から流通していた藩札を回収し、紙幣制度の統一を果たしたのである。しかし、金不足を背景に、1876年には、「国立銀行条例」を改正して金免換義務を廃止したため、国立銀行の銀行紙幣発行が急増し、インフレを引き起こしてしまった。明治政府は、1879年に金銀複本位制度へ移行するとともに、インフレを収束させるために、日本銀行を唯一の発券銀行とし、政府紙幣や国立銀行紙幣を回収する方針を固め、1882年に「日本銀行条例」、1884年に「免換銀行券条例」など関係法を制定した。そして、この法制に基づき、1886年に、銀克換紙幣が発行されたのである。

同じ頃、欧米諸国は、金本位制度への移行をほぼ完了していた。当時、銀需要の中心は貨幣鋳造用であり、銀本位制度が破棄されたことで、銀は供給過剰となり、銀価格は急速に下落していた。未だ銀本位制度を採用していた国々の通貨は、金本位制の通貨に対して安くなり、これらの国では、輸入物価が上昇し、インフレが発生した。日本もその被害を受けた銀本位制国家の一つであったが、経済基盤の弱い明治政府は、対策を練ろうにも、金が手元に無いため、有効な手立てを打てずにいた。

当時、中国はアヘン戦争(1840年~1842年)およびアロ一戦争(1857年~1860年)によって既に西欧帝国主義列強の実質的植民地と化しており、出遅れたロシアは南下政策をすすめ、朝鮮が次のターゲットとした。列強の進出をくい止め、経済的活路を開くために、日本は朝鮮を自国の影響下におくことで権益拡大を図ろうとした。1894年、朝鮮国内の東学党の乱(甲午農民戦争)に日本が介入したことにより、日清戦争が起った。これに勝利した日本は、日清講和条約(下関条約)を調印し、①清・朝間の宗藩(宗主・藩属)関係解消、②清から日本への領土割譲(遼東半島・台湾・潜湖列島)、③賠償金支払い(7年年賦で2億両二清の歳入総額2年半分に相当)、④日本に最恵国待遇を与える、等を定めた。



日清戦争の賠償金をもとにした新しい金本位制


1897年、日本は、清国からの賠償金を「金本位制」をとるイギリスのポンドで受け取ることとし、清国から受取ったポンドを金準備として金本位制を復活させた。「金本位制」へ復帰する際の平価は、旧平価1円=1.5g=1ドルから1円=0.75g=0.5ドルへと半分に切り下げた。これは、「銀」価格の下落によって、金銀比価が「1:16」から「1:32」になっていたことに対応している。その結果、僅かに流通していた旧金貨は、額面の倍、1円は2円で通用することになった。

この時定められた本位金貨は戦後も廃止されず、1988年(昭和63年)4月1日に通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律が施行されるまで名目上は現行通貨であった。

20円、10円、5円各額面の新金貨が発行されたが、1円金貨は発行されなかった。それは、1円=金0.75gでは、硬貨にするとあまりにも小さくなり過ぎるためであった。同時に、従来の銀兌換券に替えて金兌換券が発行されたが、1円紙幣は、交換できる1円金貨がないため発行できなくなった。そこで、従来から発行されていた銀貨兌換の1円紙幣を発行し続けたのであるが、1円銀貨の流通も金本位制への移行と同時に禁止されていたので、実際には交換できる1円銀貨も無いという混乱が生じた。この1円銀貨の流通禁止は、台湾、朝鮮などの地域に打撃を与えることになった。

当初、明治新政府は、東洋での貿易決済通貨として日本円銀貨を普及させることを目標とし、メキシコ・ドル銀貨の駆逐するため努力していたが、なかなか普及しなかった。しかし、日清戦争に勝利した日本の信用力は高まり、1898年(明治30年)頃には、1円銀貨が盛んに流通するようになっていた。そのため1円銀貨の流通を禁止して回収するのは困難な状況にあり、また供給を中止することも出来なかった。そこで、銀貨としてではなく、銀貨の形をした「銀塊」と言う解釈をして、銀貨の表面に丸銀の極印を打って台湾・朝鮮へ供給することにした。しかし、日清戦争で台湾は日本に割譲され、日本国の領土になっていた。台湾で丸銀極印の1円銀貨の流通を認める一方、日本本土では1円銀貨の通用禁止や引換え期限などがあったため、台湾では混乱が生じた。そのため台湾については極印の有無にかかわらず1円銀貨(時価)の流通を認める旨を定めて、混乱の収拾に努めた。1902年(明治34年)以降、1円銀貨は発行され続けたが、これは従来の1円銀貨とは異なり、台湾向け「銀塊」として造られたものであった。

金本位制を採用しても、日本は産業振興のために恒常的に貿易収支は赤字で、金の流出は続くことになった。更に、日露戦争の戦費調達のため多額の借金を抱え込み、更に賠償金が取れなかったことから、利払いも苦しい状態となり、対外収支は悪化の一途を辿った。

1914年(大正3年)、第1次世界大戦が始まると、日本に好景気がもたらされた。イギリスなどアジア諸国への輸出市場におけるライバルがいなくなり、好況に沸くアメリカからの物資も途絶え、日本の輸出は好調に増加し、貿易収支は黒字に転換し、国内では造船業や繊維業など多数の成金が生まれた。

1917年、第一次世界大戦による各国の金本位制停止を受け、日本も金輸出を禁止し、兌換も停止した。



金解禁から管理通貨制度へ


第一次世界大戦終了後、日本経済は、また慢性的な貿易赤字体質に戻ってしまい、金準備は激減し始めた。更に、関東大震災(1923年/大正12年)、昭和大恐慌(1927年/昭和2年)が発生し、第一次大戦後に欧米諸国が金本位制へ復帰する動きに追随することができなかった。
1930年、こうした悪影響が一段落したのを見計らい、日本も金本位制に復帰した。このとき、実勢の為替レートは、1米ドル=3円程度にまで円安になっていたにもかかわらず、国内のインフレ抑制と国際的地位向上という面子から、旧平価1米ドル=2円=金1.5gで復帰した。

結果、1929年のニューヨーク株価暴落と深刻化する世界大恐慌の影響を増幅する形で受けることになった。1931年、欧米諸国の景気低迷で輸出は激減して貿易赤字が拡大し、金が大量に流出し、日本はデフレ不況に陥ってしまった。

1931年12月、金輸出・金兌換を再び禁止し、日本の金本位制は崩壊し、その後は管理通貨制度に移行した。



15年戦争からハイパーインフレーションへ


1931年9月18日、満州事変が起こり、1937年7月7日から日中戦争(支那事変)が始まり、更に戦局を拡大する形で、1941年12月8日に太平洋戦争に突入する。この十五年戦争において、財政が逼迫する中、管理通貨制の下で軍需物資を調達するために紙幣を発行し続け、日本は恒常的インフレーションに陥ってゆく。

1945年8月15日、終戦を迎えると、①賠償引当、占領経費の円建て支払い、戦時中の軍発注物資の代金精算のために膨大な紙幣が増発されたこと、②生産設備の壊滅、経済統制の弛緩、不作といった物資不足・供給制約下での需要増、③戦時中の金融統制の歯止めがなくなったこと、④現金確保の為の預金引き出し、などがあいまってハイパーインフレーションが発生し、円紙幣は紙屑同然となってしまった。





ブレトンウッズ体制下での新円発行


1946年2月16日夕刻、幣原内閣は、戦後インフレーション対策として金融緊急措置令をはじめ、新紙幣(新円)の発行、それに伴う従来の紙幣流通の停止、などの通貨切替政策を発表した。①国民の現金保有を制限するために、発表翌日の17日より預金封鎖して預金引出しを停止し、従来の紙幣(旧円)は強制的に銀行へ預金させる。②1946年3月3日付けで旧円の市場流通を差し止める。③一世帯月の引き出し額を500円以内に制限する。これらの措置には、インフレ抑制とともに、財産税法制定・施行のための資産把握の狙いもあった。これによりハイパーインフレの抑制には一定の成果はあがったものの、結果として市民が戦前に持っていた現金資産は、債券同様に無価値同然に陥る結果となった。

しかし、硬貨や小額紙幣は切替の対象外とされ、新円として扱われ効力を維持した。そのため小銭が貯め込まれた。また市民は旧円が使えるうちに使おうとしたため、旧円使用期限までの間は、当局の狙いとは逆に消費が増大した。

占領軍軍人は所持する旧円を無制限で新円に交換することができた。十分な新円紙幣を日本政府が用意できないため、占領軍軍人への新円支払いにはB円軍票が用いられた。

新円紙幣の印刷が間に合わないため、回収した旧円紙幣に証紙を貼り新円として流通させた。この際に証紙そのものが闇市で出回っていたという証言がある。証紙付き紙幣は後に新紙幣との引換えが行われた後に廃止され無効となった。

国民の多大な犠牲によって誕生した新円は、対外的には、ブレトンウッズ体制の枠組みの中で機能することになった。
1945年に発効したブレトンウッズ体制においては、米国のドルのみが金兌換を保証し、その平価は金1オンス=35ドルと定められ、各国通貨はドルとの交換比率を固定することで、間接的に金にリンクするという「ドル本位制」が採用された。この時、1ドル=360円と定められたため、1円=金2.4685ミリグラム(=0.0024685グラム)となった。

明治維新後の1871年の新貨条例で定められた平価1円=1.5g=1ドルに対しておよそ1万分の16.5、1897年の新制度の平価1円=0.75g=0.5ドルに対しては1万分の33、に円の価値は下落したことになる。

なお、新制度で定められた本位金貨は戦後も廃止されず、1988年(昭和63年)4月1日まで有効であったのだが、何故、このように長期にわたって放置されたのか理解に苦しむところである。

金本位制の安定期~第一次世界大戦まで


イギリスが1817年に金本位制へ移行して以降、各国はその後を追い、ポルトガルは
1854年、カナダは1867年、ドイツは1873年、アメリカは1879年、オーストリア・ハンガリーは1892年、ロシアは1897年、日本は1897年に金本位制を採用している。

ラテン貨幣同盟は、1860年代にイギリスを中心に経済的実力を有する大国が金本位制へと移行する大きなトレンドを変えることは出来なかった。1870年、普仏戦争の開戦にともないフランス銀行が免換を停止し、1871年に勝利したプロシアがドイツ帝国を建国し、敗戦国フランスが完全に欧州大陸における主導権を失ったことは「銀本位制」の凋落を決定的なものにした。

ドイツ帝国として統合された国は25カ国にのぼり、国々は七つの通貨圏に分かれ、119種類の金貨・銀貨・補助貨幣、56種類の政府紙幣、33の発券銀行が発行する117種類の銀行紙幣が使われていた。これらは銀本位貨幣であったが、ドイツ帝国は、フランスからの賠償金を金に換え、それを裏づけとする金本位貨幣「マルク」を発行し、混乱を極めていた貨幣制度を一元化したのである。但し、賠償金を課せられたフランスが、直接、金・銀によって支払った金額は、総額50億フラン(金貨換算で1613トン)のうちわずか各々2億7300万フラン相当にすぎなかった。フランスは、国際銀行団を組織し、ドイツが発行した債券・債務証書を買い漁り、こうした外貨によって支払いを済ませたのである。ドイツは、自国に還流した債務証書をロンドン市場で売却し金を得たのである。

ドイツ帝国は、「銀本位制」から「金本位制」へ移行し、銀を市場で大量に放出した。その結果、金に対する銀の価値が暴落し、金銀複本位制(実質的な銀本位制)を採用していた国々の経済に大打撃を与えたのである。銀本位制の国々は、銀貨の横溢や金貨の流出を防ぐため、銀の自由鋳造停止に追い込まれ、以後「金銀複本位制」をベースにする「ラテン通貨同盟」は実質的に機能しなくなり、やがて1927年には解散された。

1872年、金本位制に基づく通貨同盟である「スカンジナビア通貨同盟」がスウェーデンとデンマークにより締結され、1875年にはノルウェーが参加して3ヶ国で実施された。「スカンジナビア通貨同盟」は、通貨単位は「クローネ」で統一し、10クローネ金貨(4.4803g)と20クローネ金貨(8.9606g)を共通通貨として定め、純度は90%にきめられた。しかし、現実に流通したのは金貨ではなく紙幣であり、加盟3力国の中央銀行は相互に勘定を持ち、貿易などの決済をその勘定で行った。1914年、第一次世界大戦が始まると、金輸
出禁止措置が採られて金本位制が停止され、通貨同盟は事実上機能しなくなり、1924年に解散された。

1900年、アメリカは、金本位法 Gold Standard Act of 1900 を公布し、法的に金本位制へ移行した。経済的実力をっけて世界経済そ重要な役割を果たすようになったアメリカが、世界の中で圧倒的な存在感を示すようになったのは、第一次世界大戦において戦中・戦後の疲弊した欧州に対する物資供給を担ったからで、その前後からアメリカの金準備は激増した。第一次世界大戦に突入すると、各国は金本位制を一旦離脱し、1917年にはアメリカも金梵換を停止した。しかし、戦後、1919年にアメリカはいち早く旧平価で金本位制へ復帰を果たし、1925年にイギリスがやはり旧平価で金本位制へ復帰した。次いで、1927年にイタリア、翌1928年にはフランスも金本位制へ復帰を果たしたが、旧平価を大幅に切り下げての復帰であった。旧平価による英ポンドの金本位制復帰は、米ドルに対して10%の過大評価と言われ、結果として輸出不振と国際収支の悪化を招いた。これに対して、約五分の一に切り下げられた新平価の仏フランは、対米ドル10%の過小評価で、輸出を促進して貿易収支を黒字に保ち、いわゆるポアンカレ景気をもたらした。弱い英ポンドと強い仏フランの対照は、後に再建金本位制崩壊の一因になった。



世界大恐慌から平価切下げ競争~第二次世界大戦まで


各国の金本位制への復帰によって国際通貨秩序は小康状態に入ったが、その裏では欧州からアメリカへの金の流出が生じ、国際通貨制度は不安定さを高めていった。アメリカの金準備は、1913年の2293トンが、1920年3679トン、1925年5998トンへと急増を続け、未曾有の信用拡大と経済的繁栄の中で、株式市場でバブルが生じ、1929年の株価大暴落から世界大恐慌へ至ることになる。

1931年、イギリスは、高すぎる平価による輸出不振に加え、世界大恐慌による需要落ち込みに晒され、金の大量流出に苛まれ、金本位制を停止し、その他の金本位制をとる各国もこれに追随したため、世界の通貨制度は金本位制を離れて漂流する混乱期へと突入した。

こうして、第一次大戦後に復活した金本位制は、世界大恐慌によって崩れ去り、各国は競って貿易/為替の直接的管理政策を採用し、輸出を伸ばすための為替平価切下げ競争、輸入を制限するための報復的関税引上げ競争を繰り広げ、保護貿易主義/ブロック経済化が蔓延し、世界貿易・投資を著しく縮小させ、世界の不況を深刻化させていった。通商は政府間の物々交換協定barter agreementsを通じて行われるという有様であった。

1934年、アメリカは珍しい新しいタイプの金本位制を採用し、「1ドル=金1/35オンス」と再定義し、外国政府と外国中央銀行に対してのみ金免換に応じるという制度を採用した。こうして、海外の政府・中央銀行の保有するドルと金との兌換という形で金本位制は残り、西欧諸国からは、相対的に安全な貨幣的避難所であるアメリカへと金を移送する動きが引き起こされた。世界の協調体制が崩壊し、ドイツが再軍備を始めると、再び世界戦争の不安が欧州各国を覆い、それが結果としてアメリカから欧州への物資輸出を急増させ、アメリカは不況から逸早く離脱し、第二次世界大戦勃発直後の1940年にはついにアメリカの金準備は2万トンの大台に近づいたのである。



ブレトン・ウッズ体制


第二次世界大戦後の国際通貨制度が考えられ始めた時、1943年3月に発表されたイギリスのケインズ案と、同じ年の7月に発表されたアメリカのホワイト案があった。二度の世界大戦を経てイギリスの経済力は疲弊し切っており、アメリカに集中した経済力と金準備2万トンを裏づけとする「金ドル為替本位制」を採用するしか選択肢はなかった。1944年7月、アメリカのニューハンプシャー州ブレトン・ウッズで開かれた連合国通貨金融会議(45ヵ国参加)で、ブレトン・ウッズ協定Bretton Woods Agreementsが締結された(1945
年批准)。これがIMFブレトン・ウッズ体制である。

この協定は1929年の世界大恐慌によって1930年代に各国がブロック経済圏をつくって世界大戦をまねいた反省に立脚していると同時に、第二次世界大戦で疲弊・混乱した世界経済を安定化させる目的があった。そのため、①国際的協力による通貨価値の安定、②貿易振興、③開発途上国の開発、などを行って自由で多角的な世界貿易体制をつくるために必要とされる為替相場の安定化が計られている。その基礎は「金ドル為替本位制」に基づく固定為替レートによる世界貿易の実現であり、金1オンス=35USドルの法定平価を基準に、ドルに対し各国通貨の交換比率が定められた。この固定相場制において、日本円は1ドル=360円に固定された。

この「金ドル為替本位制」を運営するために国際通貨基金(IMF)が設立され、国際復興開発銀行(IBRD)が戦禍で疲弊した各国への復興金融という役割を担うことになった。
IMF協定第四条第一項は、加盟国の通貨の平価を「金または一九四四年七月一日現在の量目および純分を有する合衆国ドル」により表示すると規定し、同第二項は「金の買入れに際しての条件」、また第四項は「金の売買と平価維持義務の結び付き」を明記しているが、いずれもドルの金梵換義移には言及していない。当初からドルと金の交換比率(ドルの金で表した価値)は規定されていなかったが、世界の金準備の大半を保有
していたアメリカは、何の制限もなく国外の中央銀行・為替管理機関等に対してドルと金の梵換に応じており、ドルは唯一の金梵換為替として準備通貨の地位が与えられることになった。このブレトン・ウッズ体制は、1971年8月15日のニクソン・ショックまで26年間にわたって機能し、1オンス=35ドルの法定平価が維持され続けた。

構造的にみると、①アメリカは保有する金準備に基づきドルを紙幣・銀行預金の形で発行する、②他国はドルとの固定レートを維持可能な範囲でドル準備を元に自国通貨を発行する、という二階建て構造になっている。各国ごとに金本位制が採用されるモデルでは「総信用量=金準備÷金準備率」となるが、ブレトン・ウッズ・モデルでは「総信用量=(アメリカの金準備÷ドルの金準備率)+(貿易決済用ドル発行額÷各国通貨のドル準備率)」となるが、各国内でのドル準備率は非常に低く、信用は慢性的に膨張する傾向が生じた。

アメリカでは、東西冷戦に加えベトナム戦争による軍事支出増大による財政赤字増大と国際収支赤字拡大によって金が流出を続け、1971年の金準備は9070トンと1952年の2万663トンの半分以下にまで減少し、「金ドル為替本位制」に対する「信認」が失墜していた。アメリカ国内において、ドルの金準備率は低下し続け、結果として慢性的インフレが生じた。西ドイツ、フランス、イタリア、スイスなどでは、金本位制に立脚する貨幣アドバイザー(Jacques Rueff等)に従い、ドル準備を金に梵換して保有する硬貨政策IIard Money Pohcyを採用し、ドルを金に免換し、金準備を増大させていった。また、欧州諸国の金融機関は、「ドル準備を積み上げて行くリスク」を認識し、ドルを保有し続けて固定レートが切り下げられた際に被る損失発生リスクを移転できるようにするため、余剰のドルを、海外との貿易決済・信用取引に使用するようになり、1960年代半ば、ユーロ・ドルEurodonars市場が成立した(1968年の残高は800億ドル)。これは、ブレトン・ウッズ体制の内部崩壊を象徴する動きであった。1968年になると、民間でもドルを保有するリスクを感じ始め、金に梵換しようとする動きが加速し、金の自由取引において「1オンス=35ドル」の平価を維持することが困難となっていた。アメリカは、二元的金市場two・tier gold
marketによって凌ごうとし、将来の世界準備銀行によって発行される新しい世界紙幣として役立つという大儀名分で、金とのリンクを完全に排除した特別引出権Special Drawing Right:SDRsの発行を計画し、これによってアメリカが金準備に縛られずに自由に通貨を発行できる体制をめざそうとしたが、西欧諸国の反対によって普及しなかった。

1971年8月15日、ニクソン大統領は、進行するインフレーションを阻止するために、①価格・賃金の凍結、②ドルと金との梵換停止、を宣言した。ヨーロッパ諸国の中央銀行による大量のドルの金梵換要求に応えられなくなったためである。ここにブレトン・ウッズ体制は終焉し、銀本位貨幣として誕生したアメリカ・ドルは、金との関係を完全に断ち切り、名目通貨となったのである。



変動相場制


1971年12月、ニクソン・ショック後の国際通貨体制を議論するために、ワシントンにあるスミソニアン博物館で先進十ヶ国蔵相会議が開かれ、ドルの切り下げと為替変動幅の拡大が取り決められた。金とドルの交換率は、「1オンスニ35ドル」から「1オンス=38ドル」へ7.89%切り下げられ、円は「1ドル=360円」から「1ドル=308円」へ16.88%切り上げられた。為替変動幅は、上下各1%から上下各2.25%へと拡大され、この通貨制度はスミソニアン協定Smithso轟εm Agreementと呼ばれることになった。ドルの平価切り下げ幅は、実勢から見て小さ過ぎ(ドルを過大評価)、ドルと西欧諸国との為替レートもドルを過大評価した平価で固定された。また、金との平価(1オンス=38ドル)は決められたものの、梵換は回復されず、自由市場での金価格は「1オンス=215ドル」に達していた。結果として、アメリカの国際収支の悪化は止まらず、1973年3月には、アメリカは再度平価を「1オンス=42ドル」へ切り下げたが、ドルの実勢レートは下落し続け、アメリカは輸入インフレに見舞われた。一方、アメリカの輸出品と競合する貿易相手国では、競争的平価切下げ・為替管理・通貨ブロックの形成等の動きが見られ、放置すれば1930年代の経済戦争に移行する懸念が広がった。

やがてイギリスなど各国がスミソニアン体制を放棄し、主要先進国は変動相場制に移行することになった。1976年1月、IMF暫定委員会で、変動相場制の正式承認を含むIMF協定の第二次改正が決定され、「金」は正式に「廃貨」となった。これは、地球上の全ての「貨幣」が、全く実態の裏づけを持たない表徴=「信用貨幣」になったのである。


欧州統一通貨EURO


欧州は、二つの世界大戦の反省にたち、ブロック経済を再び生まないために、市場の統一を目指すようになり、1968年には関税同盟を結成して実体経済面で国境を無くすという大胆な「経済統合」を成し遂げた。一方、米国の野放図な政治・経済政策によってブレトン・ウッズ体制が崩壊の危機に瀕すると、為替相場の変動という不安定要因を根本的に取り除く 「通貨統合」が真剣に議論されるようになった。

1970年、欧州通貨統合について初めて具体的な考えが示された。ルクセンブルク首相ピエール・ヴェルネと欧州経済通貨統合の研究者が作成した「ヴェルネ計画」には、1980年までに経済通貨統合を達成することがうたわれていた。しかし、1971年8月のニクソン・ショックによってブレトン・ウッズ体制が崩壊すると、その混乱の中で計画は先送りを余儀なくされた。

1972年、欧州為替相場同盟によって許容限度幅の中での変動為替制(トンネルの中のヘビ)が導入され、1979年には、欧州通貨制度EMSが創設された。欧州通貨制度EMSは、参加各国の通貨の交換について、中心レートと許容変動幅を定め、準固定レートに近い安定性をもたらすことができた。同時に、欧州通貨単位ECUが導入され、紙幣発行はしなかったものの、欧州通貨単位を具現的に見せるという目的で特別に硬貨が鋳造され、のちのユーロの基礎となった。欧州共同体の加盟国のいくつかは、欧州通貨単位ECU建ての債券を発行し、証券取引所でも欧州通貨単位ECU建てで取引がなされるようになった。

1988年、欧州委員会委員長ジャック・ドロールのもとで経済通貨統合を検討する委員会が、「ドロール報告書」を作成し、そのなかで経済通貨統合にむけた3ステップの工程表を提示した。

1990年7月1日、通貨統合の第1段階に入り、欧州経済共同体の加盟国のあいだで資本の自由な移動が可能となった。1992年に締結された欧州連合条約では、加盟国は経済通貨統合の第3段階への移行(ユーロ導入)にあたっては、インフレ率や財政赤字などいくつかの「収敷基準」を満たさなければならないとした。1996年、ダブリンでの欧州理事会において、ユーロ導入にあたっての2つの基準が定められ、更に安定・成長協定では
ユーロ導入国に対して通常の経済情勢では財政の均衡を維持することを義務づけ、他方で景気が悪化している情勢では経済の安定化のために単年度国内総生産(GDP)の3%を上限として国債の発行を認めることとし、累積債務残高については60%を上限として設定した。

1994年1月1日になると第2段階に移行し、欧州中央銀行の前身である欧州通貨機関が設立され、加盟国の財政状況を検査するようになった。1995年12月16日、マドリードで開かれた欧州理事会の会合において新通貨の名称を「ユーロEURO」とすることが決められた。1998年6月1日、欧州中央銀行が設立され、1999年1月1日の通貨統合実施以降、各国中央銀行の業務を引き継ぐ準備を開始した。欧州中央銀行は、欧州連合の機能に関する条約第127条によって、物価安定の確保に努め加盟国の経済政策を支える使命を担わされており、唯一の紙幣発行機関としてユーロのマネーサプライ管理に責任を負い、財政赤字を補うためにマネーサプライを増やすことがないように加盟国政府の指示を受け入れることが禁止されている。そのほかに、①金融政策の決定と実施、②加盟国の公的外貨準備の管理、③外国為替市場への介入、④市場への資金供給、⑤円滑な決済の促進、などの役割を担っている。

1998年12月31日、ユーロ参加予定国の各通貨とユーロとの為替レートが固定され、1999年1月1日、ユーロがそれらの国において電子決済通貨となった。このときユーロは欧州通貨単位に対して1:1で置き換えられた。翌1月2日、ミラノ、パリ、フランクフルトの各証券取引所は通貨単位をユーロとして取引を開始した。ユーロを導入した国では、2002年2月ないし6月までを移行期間とし、代金の支払にユーロか各国通貨の使用が認められた。移行期間後は旧通貨の法的効力は消滅したが、旧通貨のユーロ転換の取扱いは各国によって異なっている。

ユーロを法定通貨としているのは、欧州連合加盟全27か国中17か国となっている (ユーロ圏)。また欧州連合の経済通貨統合に参加していない6か国(モナコ、アンドラ、サンマリノ、バチカン、コソボ、モンテネグロ)も、従来からの通貨同盟などの延長で、ユーロを法定通貨として導入しているが、通貨発行権はなく、通貨発行益は得られない。ユーロを法定通貨としていない国でも、為替相場制度でユーロと連動させている国も多くあり、①欧州為替相場メカニズムに組み込まれている4つの欧州連合加盟国(エストニア、ラ
トビア、リトアニア、デンマーク)、②CFAフランを使用している14か国(中部アフリカ経済通貨共同体、西部アフリカ経済通貨同盟の加盟国、フランス財務省がユーロとの固定相場を保証)、などがある。更に、36か国と、フランス領ポリネシア、ニューカレドニア、ウォリス・フツナの3つの地域でも、ユーロ、あるいはユーロと連動する通貨を使用している。フランスの海外領土であるグアドループ、フランス領ギアナ、フランス領南方・南極地域、マルティニーク、マヨット、レユニオン、サン・バルテルミー島、サン・マルタン島、サンピエール島・ミクロン島でも同様にユーロを法定通貨としている。またキプロスがユーロ圏入
りしたことによって、イギリスの主権基地領域であるアクロティリおよびデケリアでもユーロが法定通貨として導入された。北キプロス・トルコ共和国では事実上、トルコリラが法定通貨として使用されているが、ユーロも広く流通している。一方、欧州連合加盟国のイギリスとデンマークにっいては、適用除外規定が定められており、現行通貨を維持するということが認められている。

ユーロ導入によるメリットとしては以下のような点が指摘されている。①為替相場リスクやヘッジ・コストの低減による通商や経済協力の増大、②通商による経済成長(2007年までのユーロ圏内貿易は年率5・15%増加)、③企業は巨大な単一マーケットを持つことによる規模の利益を享受、④商品サービス・資本・労働力の自由な移動を実現して市場統合を完成させた、⑤商品サービスの価格格差解消により企業間競争が活発化、⑥物価安定による消費者の利益(2%というインフレ・ターゲットの達成)、⑦通貨投機の防止と外貨準備の防衛(小規模通貨と比べた安定性実現)、⑧旅行者にとって両替手数料が不要で商品価格比較が容易、⑨自由な資本移動の増大、⑩世界におけるヨーロッパ経済圏の重要性・発言権の増大、⑪ヨーロッパの国際競争力向上、⑫経済心理面においてヨーロッパ諸国間の協力関係のシンボルとなり政治面で欧州連合の強化をもたらしている。



BRICs台頭と新たな資本形態の模索


2011年4月14日、ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカの新興5力国によるBRICS首脳会議が、中国南部のリゾート地三亜市で開かれた。5力国は、相互の融資や信用枠の設定などで米ドルに代えて各国通貨を使用することで合意するとともに、「広範な国際準備通貨システム」を提唱し、現在各国が米ドルとして抱えている準備資産の「価値」を守ることが、新興諸国の経済の安定性と確実性の強化に資すると主張した。しかし、貿易において適正と考えられる各国通貨価値の評価一ブラジル・レアル高騰や中国元切
り上げ問題一などに係る議論は回避され、各国の利害調整の難しさを印象付けた。
BRICs諸国は、世界人口の40%を占め、5力国の経済規模を合わせると、2010年世界GDPの20%近くに達する。今回の首脳会議で発表された公式統計によると、2035年には、GDPでG 7諸国を抜く見通しだ。

アメリカは、こうした準備通貨をドルから移行しようとする動きに極めて慎重であり、2009年4月のG20で特別引出権SDRsの機能拡張をIMFに検討させる提案が出た際も、「ドルは極めて強い通貨である」として完全に拒絶姿勢を貫いた。これは唯一の基軸通貨ドルを発行することによって得られる莫大な「通貨発行差益」を維持することが、アメリカの国益に叶うからであった、今後もこれを安易に手放すことは決してないだろう。

価値尺度としての金銀と貨幣の歴史を通観してみると、ドルという基軸通貨の通貨発行差益に依存した経済運営を続け、フリーランチを食べ続けているアメリカという存在は、歴史的に極めて不安定な存在であることが容易に見て取れる。BRICs諸国が、ドル準備を保有し続けるリスクを認識し、国際貿易を通じて稼ぎ出した「外貨準備」=「将来の財・サービスに対する請求権」の実質的価値を維持しようとすることは当然の行為であろう。かつて、西欧諸国の金融機関は、ユーロ・ドル市場を創設し、ドル保有リスクの移転を図った。

BRICs諸国が、対外資産(外貨準備)の「価値」を維持し有効活用するために、様々な方策を採用してきたが、ソブリン・ウェルス・ファンドは、その一つである。そして、大規模な国際通貨制度の見直しが、アメリカによって拒否され続ける限り、各国はこうした自主的防衛策を継続することになるだろう。

ドル準備を、米国債という形態で保有することは、①アメリカの信用力低下にともなう国債価格下落(究極の場合はデフォルト)、②ドル為替レートの下落、というアメリカ政府の信用力に係る二つのリスクを同時に抱え込むことに等しい。むしろ、この将来の財サービスの請求権であるドル準備を、現時点で活用し、グローバル実物経済を構成する様々な経営資源を購入し、その権益を確保し、これを活用して新たな富を生成するグローバル・バリュー・チェーンを確立することは、国家安全保障上の要請をも満たすベストソリューションである。言い換えれば「外貨準備の資本化」である。本質的に様々な国にまたがる実質的経営資源・資産を保有し、それを活用して富を再生するための「権益」を確保することになるため、名目通貨ドルのみを保有する場合と比較すると、リスクが分散されるだけでなく、「実物経済に対する支配力」という形で「価値」を維持することが可能となる。

国際通貨と 「価値value」を巡る攻防は、新たな形態の「資本Capital」を生み出そうとしているように見える。そして、これは、絶対王政下における重商主義の現代版と言えるかも知れない。

















ところで、私達が使っているお金(貨幣)は、もともと、ものと、ものとの交換を仲立ちするものに過ぎなかったのですが、いつの間にか、生きることの最終目標のごとくに君臨し、あらゆる社会的価値観を隷属させ、大小の権力をめぐりおこなわれる悲喜劇を動機づける特殊な存在として振舞うようになりました。単なるものが、人々の崇拝の対象となることを「物神崇拝」と呼びますが、何かを拝みたがる習性は、人類以外の高等哺乳類には決して見られない一大特徴ということが出来ます。お金があれば何でも出来ると物心崇拝に身を窶す人は後を絶ちませんが、そもそも人は何ゆえに紙切れでしかない貨幣を崇拝しているのでしょうか?

貨幣について考えてみることは、動物としての人間を司っている癖(本能的行動特性)を見つめ、自分自身をより自覚的に制御する術を見つけたり、日々の生活において見失い勝ちな貴重なものに改めて目を開かせてくれるかも知れません。












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