今現在の銀価格



銀は世界の何処かの取引所(ロンドン、ニューヨーク、シカゴ、ホンコン、チューリッヒ)において、一日24時間取引が為されている国際商品です。中でも、ロンドン市場は、17世紀に取引が始まった最も伝統ある市場であり、スポット現物取引もヘッジ目的の先物取引もどちらに対応し、固定価格 Fixing Priceと呼ばれる一本値で大量の需給をさばく流動性の高さを誇っています。固定価格 Fixing Price は、午後12:15に始まり、全ての取引所会員と顧客からの注文をつけ合わせ、全ての需要と供給がバランスする価格で値決めされます。




ロンドンは銀の現物取引において中心的取引所ですが、先物やオプションなどデリバティブ取引においてはニューヨーク商品取引所のCOMEXが最大の取引高を誇っています。スポット価格はCOMEXの価格水準から決定され、ロンドンの固定価格に相当するものはありませんが、貴金属業者のHandy & Harman社が、毎日正午の価格を公表しています。ここに掲載している価格表やチャートはKitco, Inc.社が提供しているリアルタイムのもので、単位は1オンス当たりのドル建て価格となっています。

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貴金属の商品市況を見るときは以下のリンクが参考になります。

現在の価格

月次の価格推移(1996年~2010年)

  • COMEX Spot Price
  • London Fix — Monthly Prices

歴史的な価格推移(1975年~2009年)

  • COMEX Spot
  • London Fix








銀価格の歴史



Silver_Price_02.jpg銀は、古来、貨幣として用いられ、国家が通貨を発行する場合には、通貨と銀との交換比率を定めることによって価値を担保する銀本位制度を採用してきました。銀の価格は、通貨単位で計った銀の価値という意味ですから、銀本位制によって通貨の価値が一定量の銀と結びついている間は価格は一定ということになります。

ここに掲載する価格はドル建てでの銀価格ですが、ドルという通貨は1792年に発行され始めてから1867年までは、実質的な銀本位通貨でした。価格の推移を示すチャートには、ドルの通貨制度の変遷が、銀の価格変化として現れています。


Silver_Price_03.jpg掲載している銀価格のグラフは、1790年から2010年までの銀価格の推移を示したものですが、通常の実数目盛りと、対数目盛りの二つのグラフをのせています。対数目盛りでみた時、グラフの一定の傾きは、一定の増加率(%)を表すため、趨勢的傾向を見る場合に、しばしば使われます。

グラフから銀価格の推移を読み取って見ましょう。



1780年~1864年

Silver_Price_1780_1864.jpgグラフから明らかなように、1861年まで銀の価格は、1オンス当たり1.292ドルでほとんど一定です。米国では、1792年に貨幣法 Coinage Act of 1792 に基づき、ドルという通貨を発行しはじめましたが、当時、世界中に流通していたスペイン・ドル銀貨(および同じ重量をもっていたメキシコ・ペソ銀貨)を基準にドル銀貨を定義しており、スペイン・ドルとメキシコ・ペソは1857年まで米国の法定通貨として流通し、実質的な銀本位制としてスタートしました。しかし、同時に、ドルは、実質的に金本位制を採用していた英国のポンドとの交換比率を£1=$4.86と定めていたため、体裁上は金銀複本位制とされています。

1814年に銀価格は一時的に上昇して、再び元の水準に戻っていますが、これは1812年戦争によって、一時的にドル紙幣と銀の兌換が停止されたからです。

1862年から銀価格は上昇し、1864年には2.939ドルまで上昇します。これは、南北戦争の混乱の中、1861年、連邦政府が、銀との兌換を停止したため、ドルという通貨の価値が低下し、銀価格が上昇したのです。

この混乱を境に、米国は、ドルと金との交換比率を一定になるように動く実質的な金本位制の状態へと移行しました(法的に金本位制へ移行したのは1900年の金本位法以降です)。

金本位制へ移行した背景には、①英国が1821年に金本位制度を開始しており貿易面・金融面でイギリスとの協調が有利であったこと、②1849年にカリフォルニアで金山が見つかり大量の金を保有していたこと、があったと考えられます。


1864年~1919年

Silver_Price_1864_1914.jpg1864年に2.939ドルをつけたあと、銀価格は長期の下落傾向に入り、1902年の0.487ドルまでほぼ一直線に下落し続け、その後1914年の0.503ドルまで小康状態に入りました。銀の価値は実に6分の1になりました。

南北戦争による兌換停止措置で、ドルの通貨価値が低下したことによって銀の価格が上昇していたわけですが、①兌換が回復されドルの通貨価値が回復された結果として銀の価格が下落し、②金本位制へ移行しドルと金の交換比率が固定された結果としてこれまで金に対して過大評価されていた銀の価格が下落し、③更に通貨としての需要が減少することによって需給面から銀価格が下落した、と考えることができます。
当時、米国に限らず、世界各国が金本位制へ移行し始め、長期的な銀価格の下落が生じたのです。英国は1717年以降は実質的に金本位制となっていましたが、1821年に公式に金本位制への移行し、1803年から金銀複本位制を採用しつつ実質的には銀本位制で運営されていたフランスと対立していました。この二つの通貨圏のいずれに属することが貿易上・金融上有利かという観点から、各国は1860年代から1870年にかけて、一斉に金本位制へ移行したのです。結果として金が不足し、金の「価値」が上昇したために、銀の「価格」が下落しました。


1914年~1919年/第一次世界大戦

Silver_Price_1914_19.jpg1914年の0.502ドルから、銀価格は急上昇に転じ、1919年には1.336ドルに達します。

第一次世界大戦が勃発し、戦費をファイナンスする必要から各国政府は相次いで金本位制から離脱し、金の裏づけのない紙幣を増刷し、戦時費用をまかないました。しかし、その結果、各国はそれぞれ異なる率のインフレーションに苛まれるようになり、通貨価値が下落し、銀の価格が上昇しました。

第一次大戦期の激しいインフレーションによって、各国の物価水準がバラバラとなってしまい、均衡水準から乖離したまま調整機能が働かなくなっていました。戦後、金本位制への復帰を模索し始めた時、各国の金に対する平価の決定が極めて難しい問題となりました。


1919年~1929年/金本位制への復帰

Silver_Price_1919_28.jpg1919年に第一次世界大戦が終結すると、各国が金本位制へ復帰するだろうという思惑から、銀価格は1.336ドルから翌年には0.655ドルまで急落し、その後、各国の金本位制への復帰状況を様子見するかのように、1928年の0.577ドルまでほぼ横ばいで推移しました。

第一次大戦中、各国では激しいインフレーションが生じましたが、物価上昇率が各国で大きく異なっていたために、同じものの価格水準が各国で異なる状況が生じ、貿易収支の不均衡が拡大しました。これは、世界大戦前の金平価を維持して、金本位制へ復帰することが、貿易不均衡を固定化することを意味していました。

1925年、金本位制の盟主であった英国は、戦前の金平価で金本位制へ復帰します。しかし、その直後に発生した世界大恐慌によって、もともと貿易赤字で金の流出に悩まされていた英国は離脱を強いられることになります。


1929年~1936年/世界大恐慌期

Silver_Price_1932_45.jpg1929年のニューヨーク市場での株価暴落を契機に始まった世界恐慌によって、銀価格は1928年の0.577ドルから、1932年には0.254ドルへと半分以下に下落し、歴史上の最安値をつけました。

英国はこの混乱の中、金の流出に苛まれ、1931年に再び金本位制から離脱します。しかし、米国は1933年まで金本位制を維持しました。これが、結果的に、米国の不況を、英国よりも深刻化させる一因となります。

連邦準備制度FEDは、発行する通貨量の40%の金準備を維持することを法律で義務付けられていました。恐慌の中、民間銀行は金へ兌換を急ぎ、FEDの金準備が急減した結果、通貨発行量を削減せねばならず、不況を悪化させるかのようにデフレーションが引き起こされたのです。従って、この間の銀価格の下落は、通貨が希少になったために発生したデフレーションによって引き起こされたものと解釈できます。

1932年の0.254ドルを底に銀価格は上昇に転じ、1935年には0.584ドルと大恐慌前の水準に戻りました。

これは、米国が1933年に金本位制を離脱し、通貨供給量を増加させることによってデフレーションを食い止めようとした結果ですが、同時に、Silver Purchase Act of 1934という銀価格を安定させるための法律(同様のものは1870年頃から存在)によって直接銀を購入して銀価格を安定させようとした結果でもあります。この法律は、米国財務省に、①銀を1.29ドルまでの価格で購入すること、②金準備の価値の3分の1まで銀を購入すること、を認めていました。この法律に基づき、財務省は、1934年から1937年までの間に、16億オンスの銀を購入しました。この間の銀の供給のほとんどは海外から流入したもので、1934年から1939年までの間に20億オンスの銀が米国へ流れこみました。そのうち4分の3を、FEDが買い取った形となり、それに対応して通貨供給量が増大し、結果としてデフレーションがやみ、経済状況の改善の糸口が見えてきたのでした。


1936年~1944年/再軍備と第二次世界大戦

Silver_Price_1935_45.jpg1936年以降、銀価格は再び下落に転じ、1939年には0.350ドルとなり、1941年まで横ばいで推移し、1942年に0.448ドルに上昇してからは1944年まで横ばいでした。

1935年3月には、ヒトラーが再軍備宣言を行い、戦乱の予感が高まる中、英国も軍備増強へ走り、米国などから兵器購入をおこなった結果、貿易収支が悪化し、金が米国へと流出する結果となりました。

各国は関税引上げによって、自国の需要が外国へ漏出しないように努めるようになり、これが結果としてブロック経済化と呼ばれる世界市場の分断を生み出すことになり、第二次世界大戦の導火線となりました。

1939年9月、ナチスのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発し、1941年12月には日本との開戦で米国も参戦することになります。しかし、米国は、第二次大戦の直接の戦場とはならず、戦端も限られていたので、欧州からの軍需特需による好景気によって大恐慌の淵から復活することができたのです。

米国財務省は、1937年から1955年までの間に、銀を16億オンス購入していますが、これはほぼ同期間(1935-1955)の民間での産業用需要量18億オンスに匹敵するものでした。



1945年~1961年/戦後復興期

Silver_Price_1945_60.jpg第二次世界大戦によって、世界の金準備は米国に集中する結果となり、金本位制は米国でしか実施できない状態になっていました。1944年、戦後の国際通貨体制が協議され、ドルした国際通貨体制が、1944年に合意されたブレトンウッズ協定です。金1オンス当たり35ドルの金本位制をベースにし、各国通貨をドルに一定の交換レートでペッグするというシステムが導入されたのでした。

銀価格は、戦後の旺盛な復興需要(送電設備・電気製品や写真フィルム)によって上昇傾向を辿り、1945年の0.708ドルから、1950年には0.800ドル、1960年には0.914ドル、1966年には1.293ドルへと緩やかな上昇傾向が続きました。

1950年時点で、米国財務省には20億オンスという膨大な銀が貯蔵されており、市中で0.90ドルで購入し、0.91ドルで売却するというオペレーションを行っていたために、1950年代の銀価格は0.91ドル前後で安定して推移し、この財務省のオペレーションは1961年まで続き、その後も、1966年まで銀価格は1.29ドルまで範囲内で推移してたのです。

1950年代の銀需要は旺盛であったにもかかわらず、財務省が0.90ドルの価格を維持しようとしたのは、0.90ドル以上だと「銀の価値」が「通貨としての価値 monetary value」を上回り、銀貨を融解して銀を売却したほうが有利になるためであったとされています。
1959年には、財務省の銀在庫は20.6億オンスとピークに達し、銀貨として流通していた分とあわせると、33.91億オンスが財務省の手にあったことになります。


1961年~1966年/通貨と銀の分離

Silver_Price_1960_65.jpg1961年、米国財務省は、数十年にわたる銀の買い手から売り手へと転じました。当時、産業用の銀需要は年9%のペースで増加する一方、経済規模の急速な拡大にともなう兌換券 silver certificate 供給量の伸びに対して銀準備が不足するようになり、財務省は、市中の通貨と銀との連関を断ち切る方針を固めました。

1961年には、兌換紙幣である5ドル券、10ドル券の銀兌換を停止し、1963年には1ドル券にも同様の措置をとり、兌換機能を持たない連邦準備制度の銀行券へと置き換える措置をとったのです。これと同時に、0.91ドルでの銀の売却オペレーションも中止しましたが、市中に残る兌換券の「通貨価値」が「交換した銀の価値」よりも低くなる1.29ドルの水準、また銀貨を融解して銀として販売する方が有利になる1.38ドルの水準以下に銀価格を抑制するオペレーションは継続せざるを得ませんでした。そのため、財務省は、1960年から1966年の6年間で、3.42億オンスの銀を売却すると同時に、銀貨として8.14オンスを鋳造して市中へ供給しました。単年の政府による銀供給量をみると、1966年に4億オンスのピークを記録し、同年の総供給量の54%を占めるに至っていました。結果として、財務省の銀準備は、11.56億オンスへと急減したのです。

こうした状況を見た投資家は、銀価格の上昇を予想し、銀貨を退蔵するようになりました。そして、この退蔵銀貨が、1970年代に、政府の銀供給が途絶した後、重要な銀の供給源となったのです。



1966年~1971年/ベトナム戦争とドル不安

Silver_Price_1966_70.jpg1966年、米国財務省による銀と通貨の連関を切り離す試みはほぼ完了し、財務省の銀準備は National Defense Stockpileへと移され、その売買オペレーション業務も General Service Administrationへと移管されました。

投資家の投機的需要に牽引され、1968年には、銀価格は1.29ドルから2.57ドルへと急上昇しました(投資家の平均購入コストは1.88ドル)が、価格高騰による買控えと景気減速から産業用需要が年10%も低下し、同時に銀貨などの融解による供給増のため、銀価格は調整直面に入りました。

同時期、ベトナム戦争の戦費増大によって米国の財政赤字・貿易赤字が膨らみ、ドル不安が広がっており、1968年には、金価格が、遂にパリティーである35ドルを離れて38.69ドルへ上昇し、翌年には41.09ドルに達しており、投資家の投機需要の一因となっていました。



1971年~1978年/ニクソンショックから第二次石油ショック

Silver_Price_1971_78.jpg1971年8月15日、ニクソン大統領はドルと金との交換停止を宣言し、ブレトン・ウッズ体制は終焉し、世界は、12月に合意されるスミソニアン協定を経て、金の裏づけが無い管理通貨制度と変動為替相場制の時代へと突入しました。

この1971年時点で、米国政府の銀準備は、1959年のピーク21億オンスから1.7億オンスへと急減しており、もはや銀は通貨との連関を全く失っていました。

鉱山からの供給量は産業用需要を下回っており、政府からの供給が途絶した代わりに、投資家の銀在庫からの供給がこのギャップを埋める構造へと変わり、銀価格は、1971年の1.8ドル前後から1974年には5ドル台に達し、石油ショックによる実需低迷によって若干調整した後、1978年には5.4ドルの高値に達しました。

一方、金価格も同様の推移を辿り、平価35ドルから大きく乖離して、1974年に159.26ドルの高値に達した後、若干の調整局面を経て、1978年には193ドルに達しました。



1978年~1980年/先物投機によるバブル

Silver_Price_1979_80.jpg1978年になると、石油ショックによる高いインフレ率に対して銀価格が十分に上昇しておらず、銀供給の不足を埋めてきた投資家による在庫供給の継続性に疑問を呈する投資家が増加し、銀価格の急騰を予想する富裕層が銀先物投機に大挙して参入しました。これは1970年代の米国株式市場が極度に低迷し、行き場を失っていた投資資金が流入したという側面もあります。

この経過は、テキサスの石油富豪ハント兄弟による銀買占め、価格つり上げ工作として有名です。
1979年2月のイラン革命が起こると、銀価格は騰勢を強め、1979年9月初には銀価格は11ドル台に達しましたが、そこからハント兄弟の買占め工作で急上昇し、1979年12月にソ連軍のアフガニスタン侵攻が勃発すると25ドル台へ上昇し、1980年1月には遂に49.45ドルという史上最高値を記録しました。これは、ニクソンショック前の35倍の価格水準であり、もともと市場規模が小さい銀マーケットに、投機資金が流入した際のインパクトの大きさを物語っています。しかし、1月7日に取引所COMEXが投機抑制のために証拠金料率引上げを発表すると、ハント兄弟はポジションを維持するために多額の資金借入れを余儀なくされるのを見ると、価格は僅か4日間で50%暴落し、更にそれから僅か2ヵ月後の1980年3月には11ドル台まで下落したのでした。

ハント兄弟は、証券会社Bache Halsey Stuart Shields(後のPrudential-Bache Securities)を通じて銀先物を購入していましたが、価格暴落にともなって1億ドルの追加証拠金差入れを迫られます。しかし、資金手当てができなくなり、今度はBache社が破産の淵に立たされます。金融危機を回避するために、証券取引委員会SECが事態収拾に乗り出し、 銀行団によってハント兄弟に11億ドルの与信枠を与えて、Bache社への証拠金支払いにメドをつけ、金融危機はなんとか回避されました。SECによる調査の結果、ハント兄弟はBache社の株式6.5%を保有する大株主になっていたことが発覚し、相場操縦などの容疑で告訴され、1988年に破産します。

銀価格の暴騰は次のような効果を発揮しました。①産業界で検討されていた銀使用量を削減する技術革新を一気に加速させると同時に不況による買い控えもあって産業用需要量は1978年の4.49億オンスから1980年の3.62億オンスへと減少しました(銀価格が5ドル台だと採算に合わない技術も、15ドル以上なら十分採算にのる)、②投資家在庫放出や銀貨の融解による供給量を増加させました、②銀鉱での生産拡大のための投資を加速させました(これまで採算が合わなかった鉱山も採算化できるが寄与したのは1980年代半ば)。

こうした価格による需給調整効果が急速に働いた結果、銀の需給ギャップは、1978年の5380万オンスの供給不測から、1979年には2890万オンスの供給超過に転じ、1980年には2億710万オンスもの供給超過状態になりました(これは1968年に政府の銀売却プログラムによる供給超過2億2890万オンスに匹敵する規模でした)。

銀価格は暴落して、1980年3月には10.8ドルとなりましたが、その後、イラン-イラク戦争の勃発によって、9月にはふたたび25ドル台を回復し、その後また急落して1980年末時点では16ドルという乱高下を繰り返しました。

一方、金も、1978年から騰勢を強め、1980年には612.56ドルの高値をつけました。これはドルの価値が、ニクソンショック前の17分の1に下落したことを意味します。



1981年~1989年/バブル後の需給調整

Silver_Price_1981_90.jpg1980年の銀価格の高騰によって、銀に対する需要は急速に減少しました。第二次石油ショックによる不況と、銀使用量を削減する技術革新の進展、買い控えなどによって産業用需要が急減すると同時に、投資需要もファンダメンタルズの悪さが理解されるにつれ急速に減少しました。供給も、特に銀貨やスクラップの融解による供給が手控えられて減少しましたが、全体としては供給超過となり、結果として、銀価格は急落し、1982年6月には安値4.98ドルをつけました。これは1年半前につけた史上最高値49.45ドルの実に十分の一の水準でした。

1982年後半に入ると、中南米や東欧における債務危機が表面化し、各国の金利引下げによってインフレ懸念が再び高まったことから、投機資金が流入し、銀価格は、1982年6月の4.98ドルから1983年3月には14.72ドルまで僅か9ヶ月でおよそ3倍の水準へ急騰しました。

1983年3月、OPECがカルテル成立後初めて石油価格引下げを発表し、インフレ期待が急速に減退したことや、価格高騰によって再び銀貨やスクラップからの供給が増加したこと、更に買い控えによって需要が急減したことによって、銀価格は14.72の高値から数日間で10ドル前後にまで急落しました。

その後、銀価格は長期的な下落トレンドを続けました。1978年以降に計画された銀鉱山の増産設備が稼動し始めたことや、銀価格高騰によって一般消費者の銀製品への需要が1973年の水準と比較すると55%も減少し、写真フィルムや発電・送電設備などの産業用需要も銀削減のための合理化投資によって急速に減少しました。1979年から1990年までの銀の超過供給量は、累積ベースで9億2700万オンスに達しました。こうした需給構造の大きなアンバランスの調整に長期間を要し、その間、銀価格は下落を続けたのです。

投資家による銀購入(その4分の1が銀貨購入)は、1979年から1990年までの累計で10億オンスにのぼりましたが、最も多く購入されたの銀価格が高値をつけにゆく1979年から1980年においてであり、平均買付価格は11.25ドルに達し、銀価格の長期低迷によって、投資家は損失を抱えたまま身動きできない状態に陥りました。また、1980年代の株式市場が好調だったため、新たな投資資金は、金融市場へと向かい、銀市場は見捨てられた形となりました。

1990年~1999年

Silver_Price_1990_99.jpg銀価格は、1990年を通じてほとんど横ばいで推移しました。この間、鉱山供給量はわずか4%しか増加せず、産業用需要は28%増加していますが、巨大な投資家の在庫からの供給によって、価格は頭を抑えられた状態にあったといえます。

1990年代は、米国において確定拠出型年金制度が普及し、個人の年金資金が投資信託を通じて株式市場へ流入し続け、株式市場は長期的な上昇トレンドを続けました。したがって、銀などの市場に投資家の目が向かなかったという側面もあります。

期中、1997年には巨額の資金を運用するヘッジファンドによってアジア通貨危機が引き起こされ、次いでロシアの債務問題が浮上し、ノーベル経済学賞を受賞したマートンやショールズによって運用されていた最大級のヘッジ・ファンドLong Term Capital Managementが破綻しました。また、1998年には日本の不良債権問題が深刻化して巨大銀行が相次いで破綻寸前に立ち至り大規模な業界再編がおこり、山一證券や三洋証券が破綻しています。

こうしたヘッジファンドの資金動向を横目に、1996年には、米国の投資家ウォーレン・バフェットが年間の銀の供給量の5分の1を買い占めたというコメントを出しており、危機的状況の中での回帰先として金とともに銀に着目した投機資金が流入したため、2008年には一時的に銀価格は7.81ドルまで上昇しました。

しかし、おりしもインターネットの普及にともなう新しい技術革新とビジネスの登場によってITバブルが株式市場で発生し、投機資金は株式市場へ向かったため、銀価格は直ぐにもとの5ドル前後の水準へ下落しました。



2000年~2010年/ヘッジファンドやETFによる投機資金流入

Silver_Price_2000_2010.jpg2000年のITバブル崩壊によって、先進国の景気は腰折れ状態となって銀に対する産業用需要も低迷しました。一方、供給面では、1990年代から開放政策を進めてきた中国が、政府の銀在庫を放出し続けており、これが銀価格の頭を抑え、2003年まで4.5ドルから5ドル程度の狭いレンジで推移しました。

2004年に入ると、突如として、銀価格は上昇トレンドに転じます。2003年の4.85ドルから、2004年の6.66ドルへ36%上昇した後、2005年に7.31ドルへ10%上昇、2006年には58%も上昇し、26年ぶりの水準に達しました。

これはITバブル後の株式市場の低迷によって年金基金などが新たな投資対象を求める中で、①ヘッジファンドを通じて年金基金などからの投資資金が国際商品市場に本格的に流入し始めたこと、②2006年4月にローンチされたBarclays社の上場型投資信託(Exchange Traded Fund) である Global Investors iShares Silver Trust などを通じて個人投資家から機関投資家まで商品市場への投資が極めて容易に行えるようになって大量の資金が流入し続けたこと、など銀市場へ投資する投資家の行動パターンが従来とは全く異なるものになり、継続的な資金流入が発生した点が最大の要因です。

銀価格は、2007年平均で13.38ドルへと16%上昇を続け、2008年3月には20.92ドルの高値をつけました。

この頃、金融市場では、米国の不動産バブルがはじけて不動産価格の下落が進行しており、2004年からブーム的活況を呈していたサブ・プライム・ローンが不良債権化し、その証券化を通じて世界中にばら撒かれたリスクが暴発しようとしていました。サブプライム・ローンの融資ブローカーは、その裏で証券化で設けていた投資銀行と結託しており、更に投資銀行の直系ヘッジファンドなどが証券化された債券を大量に購入していたのです。また、証券化の過程では、倒産した際の損失に保険をかけるクレジット・デフォルト・スワップという派生商品を、大手保険会社AIGなどが大量に引き受け、収入を急拡大させていました。不動産価格が上昇している間は上手く動いていたバリューチェーンが、不動産価格下落によって破綻し、思いもかけぬ金額の損失があちこちで発生しはじめたのです。

ついに8月には大手投資銀行リーマン・ブラザーズが破綻し、米国の不動産ローンの貸付・証券化を担ってきた国営不動産融資会社(フレディーマックなど)や、クレジット・デフォルト・スワップなどを引き受けていた保険会社AIGだけでなく、欧州の金融機関までもが破綻の淵に立たされ、貸付・融資という金融機能が完全に麻痺し、12月には世界の株価が急落する世界金融危機が勃発したのでした。

これに連動し、銀価格も急落しました。しかし、2009年3月には、銀価格や株価は底をうって上昇に転じ、銀価格は年末には58%も上昇して下落分を取り返した上で、更に上昇を続け、2010年12月には30ドルの大台にのせました。

2008年の需要をみると、主要な3本の上場型投信ETFを通じた銀需要は9310万オンスにのぼり、更に投資家による銀貨(Eagle Coinなど)や銀メダルに対する需要は63%も増加し6490万オンスに達しました。

Silver_SupplyDemand_06.jpg2009年、ETFを通じた銀保有高は、米国やオーストラリアで新しい銀投資上場型投信 (ETF Securities社やZKB社のSilver ETFなど) がローンチされた影響で、1億3200万オンス増加し、2009年末には3億9780万オンスに達しました。また、銀貨やメダル需要も、2009年には21%増加し、7870万オンスに達しました。

2010年、銀マーケットでは、英国最大の銀行 HSBCや米投資銀行JP Morgan Chaseが2008年から大量の銀先物の売りポジションを抱えて価格操作をしているとして訴訟がおこり、規制当局が調査を行う事態が生じていました。両社は、2010年末までに、大量の売りポジションを決済するために膨大な先物買いをいれ、それにともなって銀価格は上昇を続け、年末にはついに30ドルの大台にのせたのでした。また、銀を投資対象とする上場型投信 ETF が保有する銀の残高は、更に1億オンス近く増加し、10月には4億9000万オンスに達しました。

この様に、現在の銀価格上昇は、ETFを通じた全く新しい投資資金の流入に支えられ、それに伝統的銀貨やコイン、延棒への投資が上乗せされたことによるものです。更に、石油をはじめとする国際商品市況の高騰は、UAEなど資源国の貿易収支を大幅に黒字化し、こうした国々が国家の将来の安全保障のために設けている投資基金ソブリン・ウェルス・ファンド(SWF)による投資を通じて、再び国際商品市況へと還流する構造が出来上がっています。

銀市場は、①金市場と比較すると米国先物市場 COMEX の売買高で5分の1程度と規模が非常に小さく投機資金の流出入で乱高下し易い、②金の産業用需要が需要全体の15%に過ぎないのに対して銀の産業用需要は60%程度を占めており産業界の需要動向によって価格も大きな影響を受ける、③金と比較して銀貨などを鋳潰して供給され得る潜在的供給量が非常に大きく価格変化にともなう供給弾力性が高く投資家の思惑の影響を受けやすい、などの性質を持っており、ロンドンの業者間では価格変動性の激しさから悪魔の金属 Devil's Metalと呼ばれています。1980年と比較すると、ETFやSWFという新しい投資主体の登場によってマーケット・ストラクチャーは大きく変化していますが、基本的な産業需給は何も変わっておらず、供給超過傾向にあり、今後も上昇を続けるかどうかは不透明です。

ただ、2008年の世界金融危機の影響は、2010年に至っても、アイルランドなどの国家財政を破綻させ、米国に膨大な財政赤字を強いており、「国家による強制通用力」という裏づけしか持たなくなった「通貨の価値」を揺るがし続けています。過去の歴史を振り返ってわかることは、国家が弱体化して「通貨の価値」が不安定化するとき、人類は「価値」の源泉を金や銀などの貴金属に求める性質を持っているということです。そして、こうした人類の性癖は、社会生活を営む哺乳類として、群れの中での「約束事」にしたがって生きるという本能に根ざしており、「価値」は、「社会の約束事」の中にしか存在していない、ということも忘れてはならないでしょう。

投資資金の流れを注意深く見守る必要があるでしょう。



以上の分析は山内誠司の見解です。





銀と通貨制度


金および銀が貨幣として果たしてきた歴史については、「貨幣としての銀と金」としてまとめなおし、現代の「ドル本位制」の成立経緯を解き明かしながら、古代からの各国の通貨制度の変遷を含めて詳細にレビューしています。

是非、そちらをご覧ください。

<秤量貨幣としての銀>

古代社会において、銀は、延棒や銀塊の形で、重さによってものの価値を表す秤量貨幣として一般的な決済に利用されました。

金や銀は、量が小さくても価値は大きく、材質が安定しており、堅固で破損しにくく、耐摩性に優れ、随時分割、合併が容易、また、別の用途にも適用可能であり、光り輝く事から人々を惹きつけ、更に、携帯や貯蔵に優れていた事もあり、貨幣として用いられてゆきました。それ以前には、農業生産物や家畜、皮革、貝殻、そして多様な金属が、貨幣として利用されていました。

中国では、商(殷)時代の晩期になると、青銅塊、青銅餅、銅器の破片(銅片)等が実質的な貨幣として使用され始め、西周時代に盛行され、春秋時代末期まで使用されました。春秋時代中期には、白銀、黄金の秤量貨幣が登場し、白銀の秤量貨幣にはサン幣、銀版、銀餅、銀貝があり、黄金の秤量貨幣には金版、金餅、金貝がありました。

日本では、戦国時代に両替商が出現し、金銀の両替のみならず、金銀の鑑定と一定の価値ごとに封包を行って取引の便宜を図るなど秤量貨幣の取引が一般的に行われていました。江戸時代に入ると、江戸では金貨による計数貨幣による統一が行われましたが、上方では丁銀や小玉銀などの銀の秤量貨幣が依然として用いられました。南鐐二朱銀の発行によって銀の計数貨幣化が進行し、銀目取引の実態は藩札や手形によるものが中心となり、慶応4年(1868年)に明治新政府によって銀目廃止の布令が出されて丁銀などは使用停止となり、日本の秤量貨幣の歴史は幕を閉じる事になりました。


世界初の鋳造貨幣

エレクトロン貨(Electrum )は、紀元前670年頃に存在したリディア王国の世界最古の鋳造貨幣です。エレクトロン貨の材質は、バクトロス川の河床から得られた大粒の砂金、すなわち自然金に極印を打ったものであり、自然金は数%から数十%の銀を含む自然合金でした。


広域通貨としてのアテネのテトラドラクマ銀貨

紀元前5世紀、アテネ帝国時代に発行されたテトラドラクマ銀貨は、地中海貿易で一般的に通用する広域通貨として、紀元前510年から紀元前38年まで流通しました。また、アレキサンダー大王の遠征によって、テトラドラクマを通貨として使うシステムが、イランやインドにまで広がりました。


実質的な金本位制だったビザンチン帝国

ビザンチン帝国(330年~1453年)は、ビザンツ金貨を発行していましたが、この金貨は、当時のイスラム帝国を含む地中海世界で、広く流通していました。しかし、その崩壊後、欧州各国は、銀を主体とする通貨体制へと移行しました。



国際通貨としてのスペインドル銀貨

16世紀、ボリビアのポトシ銀山やメキシコの銀山を発見したスペインは、1497年からスペイン・ドル銀貨(8レアルに相当する価値)を発行し始め、この銀貨が、欧州、アメリカ大陸、極東まで世界で共通に通用する歴史上初の国際通貨として19世紀まで流通しました。


英国の通貨制度

英国における銀本位制の起源は、ヘプターキー時代のマーシア王国のオッファ王 King Offaが、796年にペニー銀貨を発行したことにさかのぼります。これはフランク王国のシャルルマージュの通貨制度を真似たもので、240ペニー=1ポンド(=シャルルマーニュの1リブラ)とされ、銀貨の重さは1ペニー=22.5トロイ・グレイン(1.5グラム)、1ポンド=5400トロイ・グレイン(360グラム)、銀の含有率は100%とされました。

1158年、ヘンリー2世が、銀の含有率を92.5%としたTealby pennyを発行し、この含有率が今日のスターリング・シルバーの品位となりました。

1344年、初めての金貨(ノーブル noble)が発行され、1663年には、22カラットという公品位のギニア金貨が発行されました。1670年以降、金貨と銀貨との交換比率を安定させようとする試みが繰り返されましたが、いずれも機能しませんでした。

1694年、Bank of Englandが、翌年にBank of Scotlandが設立され、ともに紙幣の発行を行うようになりました。

1707年、イングランド Kingdom of England とスコットランド Kingdom of Scotland が統合され、大英帝国 Kingdom of Great Britain が成立し、法定通貨をポンドと定めた。

1717年、万有引力の発見で名高いアイザック・ニュートンが造幣局長 Master of Mintとして、金銀比価を1ギニア=21シリング=1.05ポンドと定めました。この金銀比価は、海外と比較すると金を過大に評価したものであり、商人達は貿易において、支払いには銀を、受取りには金を使用するようになり、英国は実質的に金本位制へ移行した形になりました。

1816年、英国は公式に金本位制へ移行し、1ギニア=66シリング=2.3ポンドと定め、翌年、ギニア金貨に代えてソブリン金貨-22カラット/金含有量113グレイン(7.3グラム)-を発行し、銀貨は銀を全く含まないトークン token へ切り替わりました。

巨大な経済力を持つ大英帝国が金本位制へ移行したことで、周辺国家にも金本位制へ移行させる圧力がかかるようになりました。1853年にカナダ、1865年にニューファンドランド、1873年に米国とドイツが、金本位制へと移行しました。

1914年、第一次世界大戦が勃発すると、英国は金兌換を停止し、一時的に金本位制から離脱します。

1925年、英国は、第一次大戦前の金平価において金本位制へ復帰しました。第一次世界大戦期に各国はインフレに悩まされ、各国の物価水準はまちまちになっていたため、これは貿易収支の不均衡を固定化するという悪影響を及ぼしました。

1931年、米国から広がった世界大恐慌の最中、金の流出に耐えられなくなった英国は、金本位制から再び離脱しました。




<米国の通貨制度>

米国は、1776年の独立後、1792年に、自国通貨としての1ドル銀貨を貨幣法 Coinage Act of 1792 に基づき発行するようになりましたが、スペイン・ドル(それと同じメキシコペソ)に基づいて大きさや銀含有比率が定義され、スペイン・ドルとメキシコ・ペソは1857年の貨幣法 Coinage Act of 1857 まで米国の法定通貨であり続けました。実際には、スペイン・ドルよりも銀含有率が低く、英国の1ポンド金貨との交換比率は£1=$4.86+2/3であり、スペインドルの£1=$4.80より劣っていました。英国の1ポンド金貨との交換比率(為替レート)は、1931年に英国が金本位制を止めるまで維持されました。

一方、ドルを銀および金の両方にペッグする「複本位制」は、同じ1792年の造幣法 Mint Act において定められ、1ドル=銀 371.25グレイン(24.056グラム)=金 24.75グレイン(1.604グラム)とされ、金銀平価はほぼ1:15とされました。しかし、金と銀の価値変動があると、1ドル銀貨の金で計った価値を調整する必要が生じ、1834年には1ドル=金 23.2グレイン(1.50グラム)、1837年には1ドル=金 23.22グレイン(1.505g)へと調整されています。

1862年、南北戦争の混乱によって、貴金属の裏づけを持たない紙幣が発行され、一時的に本位制度が揺らぎました。1878年、紙幣との交換も復活した際に、米国は実質的な金本位制へと移行しました。米国では、1812年戦争(英国との領土戦争)の際、および独立直後の1777年~1788年にも、こうした裏づけのない紙幣が発行されています。
1900年、米国は金本位制法 Gold Standard Act of 1900を制定し、正式に金本位制へ移行し、1ドル=金 23.22グレイン(1.505グラム)と定めました。銀貨は、その後も長く発行が続けられましたが、1964年にダイム、クオーター・コインから銀が除かれ、ハーフ・ドル銀貨の銀含有率は40%へ引き下げられ、1967年にハーフ・ドルの流通も中止されました。

1933年、大恐慌の最中、金貨の金含有率が半分に引き下げられ、1ドル=金 13.71グレイン(0.888グラム)とされ、米国は実質的に金本位制から離脱したとみなされています。このドルの金平価(一般には金1トロイオンス=35ドルで知られている)は、1968年まで維持されました。

1968年以降、ベトナム戦争による財政赤字・貿易赤字によってドル不安が広がる中、ドルと金の交換比率がめまぐるしく改定されましたが、1971年8月15日、ニクソン大統領がドルと金の兌換停止を発表し、ドルは貴金属の裏づけを持たない管理通貨となりました。








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