Seiji Yamauchi | Create Your Badge

Sex:male, Blood:B type RH+, Stature:171cm, Weight:66kg, Nationality: Japanese, Occupation:Asset Management


1990年末から1994年末までロンドンで暮らしたことがあります。スローン・スクエアに近いドレイコット・プレイスは、ビクトリア時代に建てられた4階建ての赤レンガの建物が両側に立ち並ぶ歴史を感じさせる通りですが、その通りが突き当たる角の2階に部屋を借りて住んでいました。身の回りに100年以上前のものを探すことさえ難しい日本とは異なり、英国での生活には、ゆっくりと流れ続ける歴史の中に身をおいている安らぎのようなものを感じていました。

とある休日、キングス・ロードを散策していると、チェルシー地区の公民館のような建物でアンティーク・フェアが開かれており、ちょっと覗いてみると、中古品のバザーに近い貧相なブースが並ぶ一角で、ショーケースの中に「1680年代」という文字を認め、しばし立ち止まりました。それは、奇妙な形をした古ぼけたティースプーンに括りつけられた札に書かれた文字で、その下に「Trefid spoon, £250」と記されていました。高いとは思うものの買えない金額ではないしと思案しながら見つめているうちに、そのティースプーンの古風な佇まいに何故か不思議に惹きつけられるものを感じました。店主に、手持ちの現金がないけれどと声をかけると、リザーブしておくので自分の店にとりに来い、と言って住所を書いた紙切れを手渡されました。後日、その住所をたずねると、店というより普通の家で、ベルを押すと中から店主が現れました。そして、例のスプーンを見せながら、これはイギリスのものではないが、1680年頃につくられたのは間違いない、と言いました。何故、そんなことがわかるのかと訝しげに見ていると、中から本を持ち出してきて、これは俺がつくった本で、何かわからないことがあれば何でも聞きに来い、とのたまいます。まあ、本があるなら、調べれば何かわかるだろうと思って、スプーンを手に家に戻りました。

当時はインターネットなどで手軽に調べられる環境もなく、大きな本屋を探しては、関係しそうな本を幾つか買い込んできました。全く見知らぬ世界の扉を開くのはなかなか骨の折れる仕事で、見たことも無い英語の綴りに面食らいながら、読み進んでゆくと、イギリスの銀製品には13世紀から銀の含有率を保証するための検査極印 hallmark が刻印されること、同時におされるメーカーズマークとの組み合わせで何年に何処で誰によって作られたかがわかること、イギリスへお茶がもたらされた頃につくられていたのが購入したTrefid Spoonであること、などが理解出来てきました。今まで気にもとめなかった小さなスプーンが、銀やお茶に関する奥深い世界を語り始めることに感興を覚えたことが、スプーンを集め始める契機となりました。

重厚なアンティーク・シルバーのスプーンをはじめとするテーブル・ウェアは、日常のテーブルで利用すると、料理や場の雰囲気を引き立てるだけでなく、昔の人々も感じたであろう道具として使う喜びや愛着を感じることが出来ます。大切に使うと、数百年という単位で生き続けることができ、家族の食卓の記憶を世代を超えて伝えることもできます。更に、ある程度のマーケットが確立しているため、売却することができ、価値あるものを安い値段で購入することができれば売却益を狙うことさえ出来ます。色々と考えてみると、収集を通じ、歴史の襞に分け入って興味深いものごとに触れることができ、実際に使用することで高い満足感が得られ、交換価値が維持され経済的に損失が発生するリスクの小さい、などの特性を持った趣味というのは、そうそうあるものではないということに思い至りました。



Drawing_20110514_2.jpg好奇心に満ちた子供の瞳は、生命そのものを象徴しているように思えます。Drawn by Seiji Yamauchi, 3 Nov 2003. スプーン集めを通じて、わたしは、日々の生活を成立させている身近な「もの」の起源をたずねることで、「もの」に凝縮された時空の広がりと人々の生業に思いを馳せるようになりました。そして、それが、日々の生活に対する「感覚」を活き活きとした豊かなものへ高め、ある種の「浄化」をもたらす作用をもつことに気が付きました。

それまで、日本の文化について、半可通の評論を超えて、「対象」をまるごと「自分」として引き受けるような形で、考えてみたことはありませんでした。スプーンをテーマとしながら、ロココ文化におけるナチュラリズムを調べるうちに、中国や日本から西欧にもたらされた陶磁器が、その直接的な源泉のひとつになっていることに思い至り、陶磁器の源泉を理解しようとするうちに、中国の陶磁器を、新石器時代から清朝にいたる5千年という時間軸で集めるようになりました。そして、西欧に受け入れられた伊万里や薩摩焼が、朝鮮から強制的に連行された陶工達によって始められ、それを日本人の感性が育んだものであるということを理解し、ようやく、一般に「日本文化」とされているものの背後に流れる歴史とその価値を理解するようになりました。また、幼い頃から好きだった絵についても、印象派などを好む一方で、彼らに影響を与えた浮世絵については全く知らなかったのですが、スプーン集めをきっかけに、広重や北斎を調べ、やがて集めるようになり、印象派に影響を与えた形態や色彩がもたらす「感覚」の斬新さをようやく感じ取ることができるようになりました。

スプーン集めの波及効果は、職業面にも及びます。仕事柄、株式や債券の売買を行っていたにもかかわらず、実際にその「もの」を見たことはなく、何故、それが生み出されたのかということを含め、売買・決済・利子配当支払いという金融資産をめぐる社会システムを全体としては理解できていませんでした。古銭収集は一般的ですが、欧米では金融資産の券面収集も趣味の一分野として確立されており、こうした分野にも手を伸ばすことで、金銀と貨幣の関係から、株式・債券・投資信託という金融資産をめぐる社会システムの歴史的発展経緯というものも理解できるようになりました。

新しい世界の扉を開くことは、大変手間がかかり、根気がないと続かないことも確かでしょう。振り返って思うことは、自分でお金を出して購入し、賞玩し、また実際に使ってみることによって、「対象」をまるごと「自分」として引き受けるという覚悟のようなものが出来上がってくるのですが、それが別の扉にチャレンジする敷居を低くするということです。自分の頭でものを考え、判断し、行動し、その全ての結果を自分で負う、という覚悟さえあれば、世界は扉を開けてくれるということでしょうか。



人間の死亡率は100%であるわけで、生きている間に、少なくとも自分の身の回りぐらいのことは、その淵源を含めて理解し、納得した上で、始末をつけたいという気持ちがある一方、「精神」と「物質」の活き活きとした相互作用としての「文化」は、自分自身の死を超えて、継承して欲しいという思いがあります。

「もの」に付随する知識は、部分的に取り上げると、単なる瑣末な知識(トレビア)に過ぎませんが、塵も積もれば山となるという例え通り、相互に補完しあいながら、いつしか体系めいたものに仕上がってきます。近年、発達の著しい脳科学は、年を経てなおも発達し続ける脳の力として、「統合知」というものがあることを教えてくれています。かつて、この国のあちこちに生きていた物知りのご隠居は、多くの場合、書画骨董を嗜みの一つとしていたというのは、偶然のことではない気がします。膨大な情報が流れ過ぎる現代において、地に脚をつけた生活の知恵や感性の育成を、こうした分野に求めることは、ひょっとすると有効かもしれないとも思います。

「書画骨董」や「アンティーク」など交換価値を保持し得るものは、資産として、投資や投機の対象となります。先進国であまねく見られるとおり、金融資産が富裕層へと偏在すればするほど、国全体の購買力は低下し、産業の利益率は低下し、行き場を失った余剰資金は、成長著しい新興市場か、資産市場へと向かわざるを得ません。資産市場は、所有権の移転があるだけで、決して付加価値を生み出さず、値上がり益は誰かの機会損失になっているというゼロサム構造をもっています。しかし、そこに流入する資金があり続ける限り、バブルが醸成され、それが破裂しても、破裂しても、再び繰り返すのは、利益だけを目標に動き続ける資本主義経済に貫徹する必然的法則だからでしょう。中国、インドに続いて、インドネシアなど人口が多く、生活水準が相対的に低い国々へと資金は流れ続け、紆余曲折を経ながら、生活パターンの均質化とともに生活水準の平準化が推進され続けるでしょう。その一方で、国の枠組みを超えて巨大化した金融資本が、2008年のような世界金融危機を惹起し続けることも避けようがないのかも知れません。こうした巨大資本を、世界的監視体系の下に置こうとする動きは始まっており、既に欧州で一部分実現されているような、民族国家を超えた超国家への入り口に私達は立っています。そのとき、価値観の共有に失敗すると、再び戦乱の世が訪れないとも限りません。また、アンティークを、趣味から逸脱して利益獲得の道具とみなす者が、手痛い損失を被ることで、経済の仕組みや、度を過ぎた現象への警戒心をも学ぶように宿命づけられているのは、世の理と言えるでしょう。



戦乱が起こらない限り、「もの」は、生命に許された時間の限界を超えて存在し続け、世代や国境を超え、感興や感性といった文字にならない情報を伝達する力を持っています。美への憧憬が結晶した「もの」と、それを手にする人が織り成す感性に立脚する文化の集積は、時に、京都が守られたように、破壊に対する抑止力や、復興の原動力にさえなり得るように思えます。そうした意味で、わたしは、「知」とともに、「美」に信頼を置く者ですが、今、この国がおかれている状況をみるにつけ、暗澹たる気持ちにさいなまれています。今に残る美しき多くの「もの」は、実は、既に歴史から消え去ってしまった国々や人々が生み出した「文化の残骸」という側面があります。多くの美しいものを生み出してきた日本は、今、放射性物質という処理しようのないゴミを地球に大量にばら撒き、目先の生産者の利益を図るために放射能に汚染された水や食料を国民に購入・摂取させる政府・官僚組織・企業の手によって、民族としての遺伝子を損傷させられ、歴史の闇に葬り去られようとしているように思えてならないからです。



「無知と無関心は心地の良い枕である」という西欧の諺があるそうですが、専門家と呼ばれる人も、結局、自分の心地よい場所に安住し、私達の生命のあり様を根源から考えるということはしなくなってしまっているようです。福島第一原発事故に際して、細分化された歯車として金儲けと自己保身に身を窶す無責任な人達が日本のメディアを席捲し、罪のない人々と将来世代の生命を蔑ろにする安全神話をふれ回っていることは、実に驚くべき事実です。欧米各国の研究機関が福島からの放射性物質の飛散シミュレーションを毎日更新しながら、天気予報として速報しているほどの状況下で、日本語で流布される情報量の少なさと、正確性・信頼性の欠如は、この国の国力が、既に世界レベルから遥かに劣後していることを如実に示していました。低放射線量域における被曝がもたらす被害は、まず、2013年頃から子供の白血病の急増という形で表面化し、2016年頃にピークを迎えて社会問題化することは、広島・長崎、60年代の核実験、チェルノブイリ、近年の中国での核実験など、豊富な(しかし隠蔽されている)症例から、ほぼ間違いないでしょう。東京電力の損害賠償スキームが云々されていますが、命をお金で償うことは出来ません。株主や債権者の責任を問わない無責任体制を生み出そうとしている民主党政権は、その頃にはもはや存在せず、安全神話を振りまいている御用学者も雲隠れし、怒りを持って行く先はなくなっていることでしょう。

少子高齢化にともない人口減少社会へ突入し、縮小均衡へ移行しつつあるこの国が、何よりも大切にすべき次の世代の命を、危険に晒している現状をみるにつけ、既にこの国は地球の歴史から消滅する宿命を直走っているのではないかと強く危惧します。メルトダウンを為すがままにまかせ、汚染を垂れ流しながら、事実を隠蔽し、国際的に孤立し、さし当っての健康被害がないと嘯きながら、この国もろとも奈落の底に堕ちてゆこうとしている人達は、悲しい時代の道化師にしか見えません。また、原子力発電所の誘致に顕著に現れている通り、「お金には代えられない価値」を全て擲って享受してきた「豊かな」日常生活の中に、歴史を超えて継承するに値する文化があるのだろうか、という点も、根本的な疑念として拭い去ることが出来ません。美や価値を生み出す力という観点から、歴史的に見ると、効率性・収益性を追い求めるこの国は、既に長期低落傾向にあると言えます。結局、効率性・収益性を度外視した人材を惹きつけ得る場に、新しい価値や美の発露が期待できるわけで、アニメなどは数少ない価値生産の場の一つと言えるかも知れません。地球規模で人類の将来に寄与し得る付加価値を生み出し続けることが出来る「維持可能なビジネス・モデル」から逸脱し、目先の利益確保に汲々とする企業が、日本には溢れています。第二次大戦後、焦土と化した日本の配電会社は、事業基盤の再建のために資金調達にも事欠く状況でした。それを発電事業と組み合わせ、地域分割することで、安定したキャッシュフローを担保し、まずは目先の投資資金を確保できる体制を整えるために、現在の電力会社は作られたわけです。しかし、既に戦後66年を経て、歴史的な使命を終えたこうした国策企業は、既得権益に安住して利益を貪るだけの存在に成り果てており、こうした旧態依然とした生産システムを破棄しない限り、新しい時代に適用した経済システムを実現することは出来ないでしょう。




個体としての「生命」は、果てしない宇宙の営みの中で、地球という惑星に奇跡の様に生じた「生命」というシステムの発展過程で生じた微細な一部分に過ぎません。全体の中にありながら、局所的に生じた自立的システムである個体としての「生命」と、そこに宿る「意識」は、育まれ、死を与えられるべく、設計されています。あたかも、個体としての「生命」が、局所における自立的システムである「細胞」から構成されているように、個体としての「生命」は、地球レベルでの「生命」という全体システムの中で、活かされ、何がしかの役割を委ねられているのです。そして、地球の「生命」という全体システムは、宇宙という物理的システムの中に生じた局所的で自立的システムです。われわれは、宇宙の一部分として、その理(ことわり)を理解することに努め、その理にそって身を処してゆくことしかできません。個体としての生命が、時に享受していると感じている「自由」とは、宇宙の理を洞察し、身を処する結果として得られる、「自立性の拡張」というべき現象が、意識へ反映されたものでしかないでしょう。しかし、人類が見出しえる「尊厳」とは、其処にしか無いのだと思えます。

「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶすとしても、人間は彼を殺すものよりも尊いだろう。なぜなら彼は、自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢を知っているからである。宇宙は何も知らない。だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれの満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることに努めよう。ここに道徳の原理がある」(パスカル『パンセ』347)

メビウスの輪のように、われわれ人類は、其処から立ち上がり、其処へ帰るという営みを、繰り返し続けるべく宿命づけられた存在なのでしょう。しかし、良く考え、身を処することが如何に難しい課題であるかは、歴史を超えて永続する文明が存在しないことを見れば明らかでしょう。日本は、一つの文明の永続事例ではなく、地政学的に孤立した環境下に流入してくる多様な文化が、ダイナミックに交代し続けることによって、その系譜を辿ることができるような環境が偶然に温存された特殊事例に過ぎません。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と浮き足立った時代が過ぎ去ってからの20年を振り返ってみて、われわれが成し得たことが如何に少なかったかをみれば、今直面する困難の重さにたじろくしかありません。「がんばろうニッポン」の掛け声が虚ろに響くという事実の中に、事態の真の恐ろしさを感じます。その帰結は、これから数年後から現れ始め、その時点で修復しようとしても、もはや、不可能な状態になっていることも、ほぼ確実なことなのです。



個人的には、偶然の巡り会わせとはいえ、4年間のロンドン暮らしから享受できた幸せに感謝せずにはいられません。趣味を通じて、海外に友人を持つこともでき、英国のシルバー・ソサイエティーにも入会することができたことも幸運でした。手元にあるコレクションは、いずれ、文化や社会に対する知識を添えて、然るべき形で継承したいと考えています。実は、このサイトは、次に、こうした「もの」を手にする人達が、そこに凝縮された時空と人々の生業に思いを馳せることができる道先案内として企画しました。それを英語でつくった理由は、扱っている「もの」がもともと西欧のものであり、それをオリジナルに近い形で継承するためには不可欠な手段であるということのほかに、「もの」の成立ちに関与し続けてきた日本文化については、詳細なレベルで相対化した上で、その価値を継承したいという思いがあります。

もう一つ、英語を使う理由は、この国の現在のあり様に対するわたしなりの危機感にあります。Wikileaksが米国の外交政策に重大な影響を与え、中東・アフリカでのジャスミン革命でFacebookなどソーシャル・メディアが活躍したことに示される通り、インターネットを通じての情報は、時代を変革する力を持ち始めています。しかし、日本語という言語を通じた情報は、福島原発事故に見られるだけでなく、あらゆる分野で、英語による情報に対して、質量ともに大きく劣後しています。調べものをするときに、手軽に利用できる情報ソースとしてWikipediaがありますが、日本語による項目数が75万件程度に過ぎないのに対して、英語の項目数は363万件であり、実に5倍弱の差があります。更に、その内容量、詳細さのレベル、更新頻度についても際立った差が認められ、社会・文化・学術・芸術を含めあらゆる分野で驚くほどの格差が見て取れます。このサイトで取り上げた幾つかの項目は、英語のGoogle検索でもトップに表示され、英語での情報の中においても一定のアクセス(言い換えれば評価)を受けています。極めて特殊なテーマを扱っているにも関わらず、このサイトの訪問者数は月間平均2000名、ページビューは4000に達しており、国別アクセス数では、アメリカの32%、イギリスの16%を筆頭に、世界112カ国からアクセスがあります。国の広がりと層の厚みが、情報の質、量、多様性を支えており、普遍性を求めるならば、英語で発信することは一つの最低要件になっています。情報の「品質基準」として、英語で表現した上で一定以上の評価が得られるレベルを目指すようにしています。その上で、日本語にしようと考えたのですが、新しい情報を英語で書くことを優先すると、日本語化はなかなかテンションがあがらず遅れています。なるべく、英語サイトをご覧くださるよう、お願い申し上げます。



山内 誠司


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